グンナイ・ブルース
「迅、小指出して。わたしの全部を賭けて、約束するわ。……ああもう!ほら、目を見てってば」
一切合切、迷いなどないかのように、世界を真っ直ぐに見つめるひとだった。けれども彼女は決して世界に選ばれた天才ではなく、多くいる秀才のひとりにすぎなかった。もちろん、おれはそれを責めるつもりなんかこれっぽっちもない。でも、なまえさんが今口にしていることはバチあたりだ。ねぇ、なまえさん。
「わたしは今持てる全てを迅に捧げるから、迅の傍に置くっていって」
おれの問いかけは全く音になどなっていないのに、なまえさんはまるでちゃんと耳で捉えたかのように、ひとつ、瞬きを返した。その反面口は無視して彼女の主張を通そうとする。この議論はまるで、星が夜空に瞬くのと似ている。数億年単位で遠く離れたなまえさんの光。光がおれのところまで届いた頃には、元々の光源なんか、どこにもないんだ。
「おれには未来見えるってわかってるのに、そんな約束する意味ある?ぶっちゃけるよ?ぶっちゃけると、なまえさんはその約束守れないよ」
「だから、守ることに意味があるんじゃなくて、約束という行為自体に意味があるのよ」
「それはなまえさんの価値観じゃん。おれの価値観をなまえさんに合わせる理由ないよね?」
語尾になればなるほど、なまえさんの目を見ていた視線はゆっくりとアスファルトへ落下していく。情けないおれはくだらないことへ脳のリソースを割いてみる。付近の電灯はいつからLEDになったのだろうか。不純物を何もかも取り除いたかのような白い光が、黒いアスファルトを抉るように反射している。なまえさんがため息をついた。
「一回も試さないで切り捨てるのは勿体無いと思うけれど」
それはごもっともだ。けれども、おれにはおれの信じる未来がある。その未来に、おれは誇りをもっていて、なまえさんの価値観はそれにはひどく邪魔だった。さっきからずっとそう伝えているのに、引く気がないらしい。
「おれはさぁ、未来が視えることを嘆いてなんか無い。持ってるもの、環境、人、なんだって使うよ」
議論は硬直状態。こういうとき、相手がレイジさんならきっとおれの背中をいつもより強めに叩いて、目を細める。もしもこれが太刀川さんなら、収集がつかないからトリガーを起動して、勝った方が正義。きっと嵐山なら、もっとうまくおれを叱ってくれる。
思いつく限りの人をあげて、おれは正しいと主張してやりたかった。正直なはなし、正義とやらは知らないが、おれは最良の未来に手を伸ばさないなんて選択肢を選ばない。なまえさんのペースに乗せられたくなくて、支部の近くの河原、おれからすれば本拠地で、いつもより大きな歩幅で歩いた。
「わたしそんな無理難題は言ってないと思うんだけど、何がそんなに気に入らないの」
「なまえさんが玉狛に来ようとすること」
「……烏丸や宇佐美は来たでしょう」
「つまりはこういうことだよ、なまえさんが玉狛に来ても、いい結果にはならない」
なまえさんというのは非常に頭が回る人だ。だから本当は、こんなストレートに言わなくたってわかってるし引き際を理解できる人だ。これは、今はただ熱くなってるだけ。明日になれば「ごめんね迅」と笑いながら会いにきてくれる。おれはずるいからさ、そんなことだけは一丁前に願う。夢想する。そんな未来を選ぶ。
足を止めて、深夜の冷えきったコンクリートに腰を下す。トリオン体には最低限度の感覚しかないから、生身のとりよりどこか他人事だった。ゆっくりとおれに歩み寄るなまえさんの吐く息は白くて、彼女の頬は赤くて、なにも羽織れるものを持たないおれが、情けなかった。どうしてトリオン体で会いに行っちゃったんだろう。なまえさん、さむいのだけはダメだったのに。
「一般論じゃん、こんなの。すきなひとには笑っててほしいっていう気持ち、尊重してくんない?」
「……じゃあすきなひとのそばにいたいっていう気持ちはどこへいくの?」
「この川に流せば?」
「迅のすきなひとへの気持ちは尊重されるのにわたしのはゴミ同然か」
夜の黒がそのまま流れているような水面をなまえさんは睨む。三門の川を流れて隣の市をどんどん移っていくであろう、水へおれは物思いに耽った。ここにある水も、いつかは海へ帰り着く。
「そんな悪いもんじゃ無いと思うよ。海って万物の象徴だし、海に遊び行くたびに初恋の死骸が見れる」
「なら迅も一緒に捨てた方がいいんじゃない?いつまでも死骸はとって置けないわ。腐るし虫はたかるしそれこそ土に還る」
「おっとその手には乗らないよーおれは標本の作り方知ってるからパスで」
「なによそれ、ズルだわ!ズル!」
「ズルじゃありませ〜ん、実力派エリートの匠の技術だからね」
くだらない言葉を交わすだけでもおれはいいのに。無防備に晒されているなまえさんの手におれの手を重ねる。トリオン体じゃ体温なんて伝わらない。わかっててもなおなまえさんの手を取らなくちゃいけないと思ってしまった。
「……なまえさんにおれが望むことは、誰かいい奴、平凡なやつと幸せになって、もし、もしも子どもとかできてそれが男なら悠一って名付けて欲しいくらいだよ」
「求めることが多すぎでしょそれは」
「ちぇ、バレたか」
「わたしは捨てないよ、海より街の方がすきだから」
ああ、いま未来は決した。なまえさんはおれのトリオン性の手を両手で包み返した。想像以上に冷えた手に驚くがそんなのを気取られないように、平然とした口調で言葉を返す。
「ふーん、じゃあそうしたら」
座り込んだおれの手を引いて、踊るように戦う時に孤月で切りあったときのように、おれたちの鼻先が近づく。
「世界でいちばん迅のことがすきなの、わたし」
世界が全部止まる音がする。絶滅、産声、冬の空気が気管を引き裂くようだ。そうして再開した世界には、なまえさんの呼吸音ばかりがいやに耳についた。酸素がうまく吸えない。
「……ごめんかなり前から知ってた」
「でしょうね。隠しても無駄だと思ってたからいいの」
「おれも結構なまえさんのことすきだよ」
しまった、と思っても言葉だけは取り返しがつかなかった。気づかれてるだろうと思うが、それこそとっくの昔に。たった二択しかなかったルートは明確にぱっきりと分岐するのがわかる。おれの恋はなまえさんの手中に収まった。
「ねぇ、迅」
繋がった手のひらからなまえさんの手が滑り落ちる。彼女は笑って、背中から水面に入水した。ねぇ迅、わたしの身体は果たして海まで残るかしら、そんな物騒な言葉と共に。
見えているのに、すんでのところで掴み損なう。そんなことはもう嫌だ。なぁ、神さま。もしおまえがどこかで悠々と観覧してるなら、おれは絶対おまえは許さないよ。おれの身体もなまえさんを追って水へ落ちた。
「なまえさん!なまえさんっ、声聞こえてる?!」
無我夢中で叫んだ、口の中に入った水が鼻に流れて肺へ入りそうになってでも、なまえさんのことを呼んだ。もし、この未来が見えてなかったらと思うと、ゾッとする。未来のみえないおれだったとしても、なまえさんというのは非常に強情なひとだから、ここまでしたっておかしくない。肩を揺する。いざ事が起これば保健の授業の内容なんて微塵も浮かびはしないものだ。細い肩をぎゅうと握り締めて、何度も何度も、なまえさんを呼ぶ。10を超えようとしたとき、やっとなまえさんの瞼が震えて、ゆっくりと虹彩がおれを見る。唇が無音ながらも「じん」と動いた。よかった、間に合った。
「なまえさん、おれにどういうトラウマを植え付けたいんだよ……。すきなひとが目の前で死んでどう思うか考えて。だから、だからっ、おれはなまえさんを玉狛に入れたくないって言ってんの!」
なまえさんの手がおれの頬に触れた。ただでさえ白い手は真冬の水のせいでさらに真っ白になっている。それでも、なまえさんは、おれの造形を確認するように手はあっちへこっちへ動いて、視線もおれの頭を余すとこなくめぐらしていた。それからへにゃ、と破顔する。
「あはは、迅。たぶん、迅は海へはいけないねぇ」
もういいよ、そんなの。言おうとした言葉が喉の奥で嗚咽と絡み合う。泣き顔を見られたくなくて、ぎゅうとなまえさんを抱きしめる。肩口に顔を埋めて首を横に振る。幼い子供のような仕草にもかかわらずなまえさんは揶揄わずに「迅」とだけ呟いた。濡れた身体同士なのに触れているところがじんわりと暖かくなっていく。
「わたしたち生きてるのね。……ねぇ迅、聞くだけ聞いて。本当に聞くだけで構わないから」
顔は見えないけど、なまえさんがどんな顔をしているのか想像に固くなかった。迷いなんてない声だ、きっと彼女の目にはここでさえ美しい景色に見えるだろう。神さまを一度だって恐れたことのない声が続きを紡ぐ。
「迅が生きてる限り、わたしは迅に会いにいくわ。もし、迅が死んでも後追いなんかしてやらないし、墓参りもしない」
死んだあとは綺麗さっぱり忘れてあげる、なまえさんは笑った。
「でも、でもねわたし、迅と呼吸だけは合わせて生きていたい。生きることだけ、一緒にしたい。……それ以上はなにもいらない」
なまえさんを抱えたまま川の中を歩く。いくらトリオン体といえど、水圧でいつもよりゆっくりとした歩調でしか進めない。おれはなにも言わない、なまえさんの独白だけを只々聞いていた。おれがなまえさんをすきでいるのをやめられないのと一緒だ。なぁ、なまえさん。悲しくなるぐらいおれたちのこころのつくりって似ていると思わない?
落ちたときの何倍もの時間をかけておれたちはコンクリート仕立ての河原へ辿り着く。
「お願いだから、迅。わたしがこうやって生きるの、黙認してくれない?」
「それはできない」
「……理由は?」
「さっきもいったけど、おれはなまえさんに幸せになってほしいから。それ以上はないよ」
結局、おれたちふたりは海にも還れない、結論もない。死ぬことだってできない、生きることも難しい。おれたちは出会うまでどうやって生きていたんだろう。知らなかった時間の方がずっと長いのに、なまえさんがいないと呼吸さえうまくできないんだ。でも、隣にはいて欲しくはないから、地球のどこかで幸せにやっているという空想をする。
「…………おれが、なまえさんの生き方に母親の如く口挟んでいいなら、なまえさんは好きに生きればいいと思う」
「なにそれ」
「まず、何も要らないはなしだから!!これ着て!」
換装を解いて、玉狛仕様のジャージをなまえさんに押し付ける。ポカン、としたままなまえさんはおれの青い上着とおれを見比べて首を傾げた。なにもいらない、そんな言葉は献身を装った脅迫だ。おれはなまえさんと対等でありたい、どうせこのままじゃ、おれが死んだらなまえさんは呼吸の仕方を忘れるんだ。それなら、おれが死んだあとも呼吸ができるような未来へ連れていくよ。
おれのジャージを羽織ったなまえさんの袖はかなり余っていて、一回だけ折り込む。おれの色を纏うなまえさんはふたつも年上には見えなくて、今度は喉の真下がぎゅうと空気で満たされる。
街路灯の群れだけが、おれの影となまえさんの距離を知っている。