※ネームレス
俺の通う杉沢第三高校には、個人的に近寄りたくない場所が四ヵ所ある。
一つ目は陸上部の部室だ。
自分で言うのも何だが、俺はそこそこ足が速い。入学してすぐに行われた体力テストでまあまあの記録を残したを残した結果、クラスの陸上部に目を付けられているのだ。
俺は部活に入るほど運動が好きな訳ではない。生徒は必ず部活動に所属しなければならないという厄介な校則があるため、俺は当たり障りのない文化部に入部した。……が、陸上部のやつは未だ諦めてはいないらしい。
最初の頃は悪い気はしていなかった俺も、熱烈な勧誘が二ヶ月も続くとなると流石にきつい。
隣のクラスに人間離れした身体能力を持っている男子生徒がいる。『五十メートルを三秒で走る』という馬鹿みたいな噂は、うちの生徒ならば誰でも一度は耳にしたことがあるはずだ。
俺よりもそいつを引き入れればいいのでは?と思ったが、そいつは強面の陸上部顧問の勧誘を断り、運動とは無縁な同好会に所属している。
そこで、そいつよりも引き入れやすそうな俺に声をかけ続けているらしい。迷惑な話である。
二つ目は、心霊現象研究会――通称『オカ研』の部室だ。
なんとも胡散臭いその同好会は家庭科準備室を拠点に活動している。
詳しい活動内容は知らないが、近所の心霊スポットを巡ったり、オカルトな噂を集めて謎を解き明かしたりしている……らしい。
俺自身、オカルト話は娯楽の一つとする部類の人間である。
しかし、第六感とでも言うのだろうか。大きな病院や心霊スポットに近付くと、ごく稀にぞくりと嫌な気配を感じる時がある。
こういう場所には近付かない方がいいに決まっている。
だからわざわざ自分から首を突っ込むオカ研のやつらの気が知れないのだ。
それにここ数日、オカ研の部室から嫌な気配がするのだ。近くを通ると、どんよりとした、なんとも重苦しい空気がまとわりつく。
これまでの経験に倣って、俺はオカ研の部室には近付かないでおこうと誓った。
三つ目は、ラグビー場だ。
うちの高校には立派なラグビー場があるのだが、勿体ないことに今は何故か閉鎖されているのだ。
あれは入学してすぐのこと。放課後ぶらぶらと敷地内を探検していた俺は、件のラグビー場までやってきた。
やけにしんとしており、『立入禁止』のカラーコーンに疑問を覚えて考えなしにラグビー場へ続く階段を降りていった。
その時、ぞわりと全身の毛が逆立った。ヤバい、と本能的に感じた俺は、早足で来た道を戻った。
立ち入り禁止の場所には迂闊に近付かないようにしよう。そう学んだ日だった。
四つ目は、学校の敷地内にある百葉箱である。
百葉箱に近付きたくないとはどういう意味だ。人に話せば馬鹿にされるかもしれないし、俺自身もそう思う。
けれど、言葉では言い表せないほどの『何か』がそこにはあるのだ。
あの日ラグビー場から離れた俺は、性懲りも無く敷地内をうろついていた。
鬱蒼と木々の生い茂るそこに、忘れ去られたかのようにぽつんと設置された百葉箱。
興味を惹かれた俺は近くで見てみようと、数歩足を踏み入れた――はずなのに、一歩も前に進むことができなかった。
『身の毛がよだつ』とはこういうことを指すのだろうか。どくどくと脈打つ心臓の音が、やけに鮮明に聴こえたのを今でも覚えている。
大人しく帰宅していればよかったものを。今更思い返しても後の祭りである。
あれから、もうそこには近付いていないし、近付いてはいけないと悟った。
「あーどうしよ……」
夜の学校とはこんなにも怪物じみたものだったのだろうか。
俺はごくりと唾を飲み込み、暗闇の中どっしりと構える校舎を見上げた。
六月のじっとりと湿った空気が不気味さを増長させている。
馬鹿なことに、俺は明日提出の課題を学校に忘れてきた。もう少し早く気がついていれば人がいる時間帯に取りに来ることができたのに。
しかもよりによって厳しいと名高い教師の課題である。明日の己を想像して身震いした。
もしかしたら宿直や見回りの職員がいるかもしれない。
しかし、と思いとどまる。ただでさえ重苦しい気配のする学校に、夜間忍び込むのは嫌な予感しかしない。
けれど課題をやらないと明日の俺が悲鳴を上げることになる。
嫌な気配のする夜の学校か、それとも提出しないと怒られることが確定している課題か……。
長い長い葛藤の末、現実的な害のある方に軍配が上がった。
ヤバいと思った場所には近付いようにしよう。そう結論付けた俺は、意を決して敷地内に足を踏み入れた。
校舎をぐるっと一周してみるが、宿直の職員なんていなかったし、嫌な気配はどんどん増している気がする。
「これは諦めるしかねぇかな……。頑張れ明日の俺」
もう諦めて帰ろう。
真面目にやってきたやつには悪いが、明日の朝クラスメイトに見せてもらおう。昼飯でも奢れば写させてくれるだろうか。
そんなことを考えながら、とぼとぼとグラウンドを突っ切って校門に向かっている最中――。
ドカン、という何かが崩れ落ちるような轟音と、地震とは異なる大きな振動が伝わってきた。
驚いて振り返ると崩れて瓦礫と化した校舎の壁と、校舎の屋根で暴れる、もにゃもにゃとした澱んだ『何か』が見えた。
更に目を凝らせば、もにゃもにゃの前に人影が二人分確認できた。
「……は?なんだよアレ。ていうか人!?」
俺のあまりよろしくない脳みそでは、この非現実的な現象に理解が追いつかない。
それに、明らかに非現実の震源地である屋根に人がいる。
こんな状況で俺に何かできるとは思わない。
理解できない。理解できないけれど、あの人たちが危ない気がする。
普段の俺だったらあんなヤバい場所には近付かないだろう。けれど、冷静でない俺は頭より先に脚が動いていた。
「おい!大丈夫か!?」
「――っクソ、何でまだ一般人が……!早く逃げ……!?」
校舎に走り寄り、屋根の上にいるやつに声を掛ける。
黒ずくめの男子がこちらに気が付き、焦りの混じった声で逃げろと促したその瞬間。
もにゃもにゃの気配が吹き飛んだかと思うや否や、それを上書きするほどの禍々しい気配が爆発した。
緊張で汗ばんだ肌が、百葉箱の周囲と同じ気配を感じとる。
立ちすくむことしかできない俺は、屋根の上にいるもう一人を見上げた。
「……は?虎杖?」
姿形は我が校の有名人、隣のクラスの『虎杖悠仁』そのものである。
しかし、彼のがっしりとした体躯に刻まれた紋様と、人間離れした笑みを貼りつけてゲラゲラと壊れたように笑うアイツは、あの虎杖だとは思えなかった。
ひとしきり笑い何か叫び散らしたアイツは、ただ呆然と突っ立っている俺の存在に気が付き、屋根の上からスッと見下ろしてきた。
ギラギラと嫌な光を放つその四つの目から視線を逸らすことができない。
「……っ、おい、やめろ!」
血塗れの黒ずくめが叫ぶ声が響いた直後、アイツが屋根から飛び降りた。
とてつもない速さで俺に向かってくるアイツに、俺はギュッと目をつぶることしかできなかった。
もう駄目だ、死ぬ。
そう覚悟したが、いつまで経っても痛みが来ない。
まさか痛みを感じる前に死んだのか。
恐る恐る瞼を開ける。興味深そうに嗤うアイツと震える俺との間――何もないはずの空間がゆらいでいた。
「……ほう?これはこれは厄介な」
厄介、と言いながらも心底愉快そうなアイツは、俺の目の前の空間を叩く。何もない空間からはコンコンという硬い音が響いた。
だんだんとその空間はヒビ割れていき、パラパラと軽い音を立てて崩れ落ちる。
今度こそ駄目だ。
そう思った瞬間、俺はいつの間にか校舎の屋根にいた。
「……は?あれ??」
「今どういう状況?」
間抜けな声を上げ慌てて周囲を見渡す。
視界には校舎の瓦礫と、目を見開く黒ずくめが飛び込んだ。黒ずくめは思ったよりも俺と年齢が近いようだ。
次に視線を俺の身体に移すと、俺の腹にぐるっと腕が回されていた。
俺は今、誰かに荷物のごとく抱えられているらしい。ぷらぷらと揺れる俺の両腕と両足、そして頭上から聞こえる男性の声がそれを物語っている。
「君には聞きたいことがいろいろあるけど……とりあえずそこで大人しくしててね」
「うわっ!?」
男性のもう片手にあった紙袋と一緒にぽいっと放り投げられた俺は、顔からコンクリートにダイブし……かけたところを、黒ずくめにキャッチされた。
「……わ、悪い、助かった」
「いや……」
満身創痍なのに悪いことをしたが、一番悪いのは俺を放り投げたコイツだ、と元凶の男性を睨み上げる。
真っ黒の服に真っ黒い目隠しで黒ずくめがまた増えた。けれど髪の毛だけは輝くような白で、呑み込まれるような黒い夜の中、異様に目立っていた。
いつの間にかアイツも屋根に上がっていたが、グラウンドで対峙した時のような禍々しい空気を纏ってはいない。
「虎杖か……?」
「ウソ!先輩たちの他にも人が居た!?ていうか、ごめん、どちら様……?」
申し訳なさそうに頬を掻くコイツは、間違いなく噂通りの虎杖だ。さっきのは一体何だったのだろうか。
目隠し男と虎杖が何か話し込んだかと思うと、再びアイツが姿を現した。
愉快そうに嗤うアイツと目隠し男が対峙し、俺の目では追いかけることができない速さで戦闘を繰り広げている。
こんなの映画の中でしか見たことがない。時折迫り来るコンクリートの破片に、俺は思わず黒ずくめ男子の服を握りしめた。
目隠し男が十秒数え終えた直後、アイツの気配がふっと消え去り、入れ替わるように虎杖の気配が浮上する。
歩み寄った目隠し男が虎杖の額をトン、と突くと、そのままガクンと崩れ落ちた。
「虎杖!?」
「何したんですか」
黒ずくめ男子と同時に声を上げると、目隠し男はひょうひょうと「気絶させたの」と答える。人間ってこんな簡単に気絶するもんなのか?
そして、虎杖を担いだ目隠し男が『次はお前だ』と言わんばかりに近付いてくる。
「それで、君は誰かな?」
「え、は?えっと、俺はここの生徒で……」
思ったよりも長身の目隠し男に見下ろされて混乱し、言葉に詰まる。
「ふぅん?まあ、いいや。君も呪力があるみたいだし、この子と一緒に来てもらうよ。いいよね?」
NOと言ったら消される。
穏やかな言葉の裏からとてつもない圧力を感じさせるこの男に、俺はこくりと頷くしかなかった。
グッバイ俺の平穏な日常。