されど棺は空のまま

月明かりに照らされた、しんと静まり返る森の中。何処かで梟が鳴いている。ぎゅ、ぎゅ、と雪を踏みしめる音が耳につく。
 すぅ、と深く深く息を吸えば、肺の中は夜の冷気で満ちていった。
 どれほど歩いただろうか。辺りを見渡せども奈落の様な闇が延々と続いている。自分が何処にいるのかさえも分からないまま、ゆっくりと歩を進めていく。

 疲れた。かさついた唇からこぼれた言葉は、夜の森にすっと溶けていった。
 その時、近くの笹藪ががさりと音を立てた。足を止めて首だけそちらへ向ければ、月明かりによって影を落とす大きな何かが動いている。
 ヒグマだ。目を凝らした先にいたのは巨大なヒグマであった。熊とはこの時期冬眠する生物ではないのか。そう思ったが、まあいいかとすぐに考えるのをやめた。
 熊の方にくるりと身体を向け、そのまま両腕を広げて巨体を見据えた。
 
 さあ、好きなだけ喰らってくれ。俺の血肉でお前の生命を繋げるのならば上々だろう。
 眼前の低く唸る熊に心の内でそう伝えると、苗字名前はゆっくり瞼を下ろした。




 ぱち、ぱち、と木の爆ぜる音。閉じた瞼の向こう側で揺らめく橙。時折頬を撫ぜるひやりとした風。そして、楽しげな笑声。
 名前はやけに重たい瞼を薄く開けると、軍帽の男と毛皮を着込んだ少女が仲睦まじく焚火を囲んでいるのが見えた。何ともちぐはぐな組み合わせである。
 死後の世界とはこんなにも和やかなものなのだろうか、と名前はぼんやり思った。

 もぞもぞと名前が身じろぐ気配に気が付いた男が顔を上げる。戦場で嫌というほど浴びた、肌にちくちく刺さる懐かしい殺気に、どうやら此処はあの世では無いようだと名前は落胆した。

「む、起きたのか」

 少女に覗き込まれた名前はまじまじとその顔を見返す。艶やかな長髪の少女は特徴的な柄の布を頭に巻いており、名前は確かアイヌの伝統紋様であったか、と記憶を手繰る。
 少女の意志の強そうな双眼は深い青の中に緑が散りばめられていた。日本人には珍しい色合いのそれはころんとした形も相まってまるで舶来の硝子玉の様であった。
 寝かされていた名前は上体を起こそうと身を捩るも、何故だか手足が上手く動かない。

「杉元が拘束しろとうるさいから手足を縛ってある。……まあ、縛らなくてもそれだけ衰弱しているなら動けないと思うけどな」

 名前の疑問を汲み取った少女が、呆れた様な声で答えた。どうりでと納得したが、その後に何故、という新たな疑問が名前の中で生まれる。
 少女に「杉元」と呼ばれた顔に特徴的な傷のある男を見れば、ぎらぎらとした手負の獣の様な眼光を名前に向けていた。射殺さんとばかりに殺気を放つその瞳は、焚火の灯で余計に揺らめいて見える。

「お前、自分の名前は言えるか?」
「……苗字名前」

 名前がぽつりと答えたのを聞いた少女は、意識はしっかりしている様だなと安堵した。
 暫しの沈黙の後、杉元が唸るような低い声で呼びかける。

「その肩章、お前第七師団だろ。俺達を追って来たのか?」
「確かに俺は第七師団だが……すまない、お前の事は分からない。何処かで合っていたか?」

 今まさに自由を奪い、更には自身に殺気を放つ相手にも律儀に謝罪を述べる名前に、杉元は顔を顰める。
 軍帽から覗く軍人にしては長めの髪に、弱々しく下げられた眉、青白く生気が無いが整った部類であろう顔立ち。軍服の似合わぬ覇気の無い男を見て、杉元は己の知る刺青人皮を血眼で追う第七師団の奴等とは雰囲気が違う、と思った。
 しかし、つい先日この雪山で第七師団の連中と交戦したばかりである。異変を察知した追っ手が近くまで来ており、この苗字とかいう男もその一人ではないのかと警戒する。
 そんな杉元の心中を知ってか知らでか、少女は再び苗字に顔を近づけ、先程よりも語気を強めて話しかける。

「苗字。お前はどうしてヒグマから逃げようとしなかった?見たところ銃や剣どころか灯りさえ持っていない。どうしてそんな危険な格好でこんな雪山をうろついていたんだ?」
「……から」
「なに?」
「疲れたから、終わりにしようと思った」

 泉の様に澄んだ子供の瞳から逃げる様に、名前はどろりと濁った目を逸らしながら答えた。

「……どういうことだ」
「そっちの男の言う通り俺は第七師団だ。先の戦争にも参加し、そこで唯一の友を亡くした。俺を庇って、目の前で弾け飛んで死んだんだ。あいつは優しくて、誰からも愛されていて……俺なんかの為に死んでいい人間じゃ無かった」

 虚空を見つめ言葉を並べる名前に、ニ人は口を閉ざして聞き入っていた。

「それから毎晩、顔の判別もつかない程血みどろの友が、夢枕に立っては俺に何か捲し立てる。もう限界だったんだ」
「それで、自死しようとしていたのか?」
「偶々ヒグマが出て来たから、こいつに喰われるのも悪くないと思った」

 暫く黙って話を聞いていた杉元が突然立ち上がり、ずかずかと名前に近づいたかと思うと胸ぐらを掴んで引き上げた。
 ぐらりと視界が揺れ、締まる首元に息が詰まり顔を顰めた名前は無言で杉元を見上げる。焦った少女が止めに入るがそれでも手を離す気は無い。

「おい、杉元ッ……!」
「……今のお前を見たら、その友人はどう思うだろうな。唯一の友が命を散らしてまで守った命だ、どうして自ら絶とうとする!?」

 声を荒げる杉元に、名前は目を伏せて唇を震わせた。

「……俺だって、初めは拾われたこの生を全うしようとした。けれど、ふとした瞬間にあいつの最期が脳裏をよぎる。あいつはこんな事を言うはずが無いと理解しているのに、寝ても覚めても鬼の様な形相の友の影がついて回るんだ!俺が生きている限り友は呪いの言葉を吐き続けるだろう。……たとえ俺の弱さが生み出した幻だとしても、あの優しかった友にそんな事をさせ続けたく無いんだ」

 だから、もう終わらせてくれ。弱々しくそう言った名前に、杉元は襟を掴む力を緩める。体重を杉元に預けていた名前は支えを失い、力無く雪に膝をついた。
 俯いたまま顔を上げない名前を男と少女は言葉無く見下ろした。

 暗く静まり返った空気を払拭する様にひとつ息を吐いた少女は、名前の冷え切った頬を両手で挟み込み上を向かせた。ばちん!と音が響くほどの勢いに今度は杉元がギョッとする番であった。

「ちょ、アシㇼパさ……!?」
「名前!」
「!?」

 突然の事に目を白黒させる名前などお構いなしに少女は言葉を続ける。

「戦争帰りの苗字名前は、冬籠りし損ねたヒグマに喰われて死んだ」
「……は?」
「お前は私達が偶然山で出会ったただの名前だ」

 名前は少女の言葉を咀嚼するも上手く呑み込めなかった。

「無理にとは言わない。名前、行く宛が無いのなら私達に協力してくれないか?」

 名前は目を開いたまま、少女の青い瞳を見つめ返す。

 一度捨てたこの命。二度も救われたこの命。神とやらはなかなか俺を死なせてくれない様だ。
 ならば、俺の死に場所は何処なのか自分の目でとことん確かめてやろう。

 少女の真剣な眼差しに、名前は首を縦に動かした。
 少女は大人びた真剣な顔から一変し、年相応の無邪気な笑みを浮かべて手を差し出した。

「決まりだ!私はアシㇼパ。よろしくな、名前」
「……ああ、よろしく、アシㇼパちゃん」

 名前はアシㇼパの手を握り返すと、重たい軍帽を焚き火の中へと放り投げた。