たったそれだけのことなのに

「アリソン隊長」

そう呼ばれて机にかじりついていた青年が顔を上げた。両の目の色の違う、長い黒髪を結わえた青年だ。
机にはいくつかの紙の束と書物が積まれ、瓶に入ったインクは少なくなっている。先日新しいインクを渡してそう日数は経っていないはずだが、日々書く量が自分達下っ端とは違うのだなと悟る。
俺が隊長をじっと見たまま言葉を発さないものだから、隊長は首を傾げて不思議そうに口を開いた。

「どうした?」
「っは…すいません、次の任務の指令書が届いたので急ぎ見てもらおうと…」

基本的に隊長には先に会議等で口頭で伝えられているものなのだが、細かい事柄を含め書簡でやり取りを行うことが多い。
それがだいたい任務の直前に舞い込んでくるのでより一層忙しないのだ。

「はいよ、今見るから待ってる間そこに座ってな」
「いえ、…」
「そこで待ってられると落ち着いて読めないだろ?」
「では…お言葉に甘えます」

そのまま促されるままソファに腰掛けて声を掛けたが、隊長はもう俺の言葉は耳に入っていないようだった。
レクス・アリソン。今でこそ貴族であるアリソン家に養子に入っているものの、生まれは貧民街であったと聞き及んでいる。
軍属の人間に身分の差はないと表立っては言われているものの、実際出世するのは貴族の出である者ばかりで。
そこに現れた彼はあっという間に副隊長になり、前隊長のシルヴィア様に後継として選ばれた。
言葉にすると簡単に聞こえるが、きっと大変な苦労がいくつもあったと思う。
それでも隊長は俺たち一般兵の、ひいては民衆の憧れの的だ。まるで物語から出てきたかのような存在。
優しい。強い。情に厚い。素直。努力家。背も高く、体格に優れ容姿も整っている。
それでいて何ひとつ鼻に掛けている様子がない。
俺は隊長が少し怖かった。とても同じ人間とは思えず、きっと裏があるのではないかとさえ思っていた。
隊長の隊に配属になってしばらく隊長の動向を探っていたことがある。
早朝に自主訓練する姿。昼に執務をこなす姿。夜遅くまで部下に付き合ってやる姿。休日に街へ出て人助けする姿。
何日隊長を見ていても、裏なんてどこにもなかった。
ではあの人は、どこで甘えどこで疲れを癒やすのだろうと思った。


その答えを得たのは新入隊員が入ってきてからのこと。
隊長が気にかける新入隊員がいたのだ。
リヒト・メリディエース。中流の出の、なんてことはないごく普通の少年。
俺には隊長が彼の何を気に入ったのかはじめは全く理解出来なかった。
成績もいわゆる真ん中くらいで、物凄い経歴もない。
たまたま彼を指導する機会があった俺は、彼に隊長と知り合いなのかと声を掛けた。

「アリソン隊長と顔見知り?」
「え?あ、はい…俺が子供の頃、隊長が副隊長で…」
「ああ、あの町の子だったのか君は」
「そうです、そこで出会って…」

聞いた話はどこにでもあるような話で、特筆することはなかった。
それから数日した夜半の見回りで、隊長と少年を見かけた。
しばらく何気ない会話をしていたが、途中で少年が制止をかけて。

「それで、さ…」
「もういいよ」
「え?」
「もういい」
「でも俺「アンタ疲れてるといつもよりちょっと、口数が多い」

驚きだった。隊長も驚いていたようで、返事はない。

「お疲れ様、レクス」
そう言って隊長の頭を撫でているのが遠目からでもわかった。
隊長は観念したかのようにため息を吐いてから何かを呟いて、少年に寄りかかる。

「今この時だけ隊長辞めていいか?」
「いいよ」
「疲れた…」

俺は踵を返して見回りに戻った。もう見る必要はどこにもなかった。
あの少年以外、誰が隊長のあの言葉を聞くことが出来ただろう。
彼は紛れもなく隊長に選ばれた存在で、隊長は彼の前では人間に戻れるのかもしれない。

「というかリヒト、手紙はずるいだろ…」
「だってアンタが忙しそうだから書いてやれって…」

レクスの手にした紙にはリヒトが書いた任務を頑張ってくれという趣旨の手紙が握られていた。
末尾に帰りを待ってるなんて書かれてしまっては頑張らないわけにはいかない。
書いてやれと言った人間の顔が頭に浮かぶ。さそ思惑通りだったことだろう。

「入れ知恵した心当たりいくつかあるけど許す、嬉しい、家宝にする…」
「それに」
「それに?」
「一月もいなかったし…」
「寂しかった?」
「……」

なんとも思春期の少年には恥ずかしいようで言葉にせずに、リヒトがこくりと頷く。
愛情表現を普段あまりしない彼の行動にレクスは胸がいっぱいになって、思い切り抱き締める。
おずおずと背に手を回す仕草がまた可愛らしい。

「あーもう俺お前のことほんっと大事にする」
「なに、急に…」
「好きだって話」


思い出していたらふ、と影が落ちて隊長が目の前まで来ていたことに気付く。
声を掛けられていたのだろうか、しゃがみ込んで首を傾げていた。

「確認終わったぞ」
「すいません、ぼうっとしてました。ありがとうございます」
「疲れてるんじゃないのか?」
「少し寝不足かと…」

貴方を見ていて寝不足です、とはまさか口が裂けても言えない。

「そうか……」
「?あの、」

じっと俺を見ていた隊長が、にかっと笑って口を開いた。

「覗きも程々に、な?」

その後俺はひたすら謝り倒したが、特に怒った様子もなく隊長には頭が上がらなかった。
そう言えばあの時少年に、隊長は何を呟いたんだろう。
それだけは今でもわからないままだ。


「本当、リヒトには負けるよ」