ウルヴァ

目を開けると、男の背中が見えた。
どうせまた人のベッドに寄りかかれる定位置で、地べたに無遠慮に座り込んで煙草を吸っているんだろうと寝起きの頭で考える。
男の吸う煙草の匂いが、ゆらりと部屋を支配してひどく安心したから。
人が眠っていてもお構いなしに上がりこんで、我が物顔で居座るその神経は中指立てて死ねと言いたくなるというのに、私はこの男に合鍵を渡したままだ。
起きたときに誰かがいるのは心地良くて、もうなにかに怯えることもないから。
どうしようもない男だけど、身体的相性が良くて行為も上手くてとびきり優しいから。
部類としては悪い男なのに、私はこうやっていくつもの言い訳を脳内に並べ立てて結局毎度鍵を取り上げるでも、もう来ないでと言うでもなく受け入れてしまう。
もっと酷い男を知っているからかもしれない。

「背中に熱い視線を感じんなぁ」
「……」
「そんなに見られると穴が空きそうだ」
「空けば」
「はっ、容赦ねぇな近頃のお嬢さんは。皆こうなのかね」
「その言い方、おじさんくさい」
「おっさんだもんよ、ほらよ」

自嘲的に笑うと男がグラスを水で満たして、私に差し出してくる。
よくわからないところでマメな男。

「……いつ来たの?」
「さてなぁ、お前またろくでもない生活してただろ」
「いつもと同じだよ」

次は私が自嘲的に笑う番で、水と珈琲と煙草があれば良いから食事は適当な上に、好きな時に寝るものだから今日だって夕日がカーテン越しに赤く部屋に差し込んでいる。
今も、陽のあたる道は少し怖い。

「なんか食いにいくか」
「うん」
「着替え手伝ってやろうか?」
「エロおやじ」

私の罵詈雑言を物ともせず、うんとおめかししろよなどと抜かして鼻歌を歌っている。メンタルラスボス級か。
クローゼットからそこそこ可愛らしいんじゃなかろうか、と言える服を選んでいる自分がちょっとおかしくて顔が笑う。
気張った格好はなんだかむかつくし、かといっておしゃれしないのも嫌だった。
私の中の女という面倒くさくてどうしようもない感情が見え隠れしている。

「何食いたい?」
「ウルは?」
その言葉を吐いた後に後悔はした。
「それ俺に聞くのか?答えわかってて聞いてるだろ」
そう言ってお尻を這う手を思いっきりつねってやるが、これもあまり効果はない。
「良く捕まらなかったね。今まで」
「褒め言葉か?」
「ばか」

ウル。本名なのか愛称なのかもよくわからない二文字。でも前にどっかの女の人が同じ名前で呼んでたから、統一はしている呼び名だと思う。
その短い呼び名と、おおよその年齢、仕事?というか生業くらいしか知らない。
まあでも色んな女と寝ているんだとは思う。特に隠そうともしないのだから手慣れている。若い頃から浮き名を流していたに違いない。

「もう痛くねえか?」
ふいにウルが、私の手首の傷痕を見て言った。
「……うん、もう痛くないよ」
「そいつは良かった。痕にならないといいな」

私の元婚約者が付けた傷。
ありふれた話が、はじめは聖人の顔をしておいて蓋を開けたらバイオレンスで。このままこの世を去るのかもな、なんて絶望にも慣れた頃にウルは私の目の前に現れたのだ。
金の問題なのか、悪いことをしたのかは知らないけれど婚約者だった男はあっという間に目の前で元婚約者になった。
仕事が殺しなら、私のような女は飽きるほど見たことがあるだろうにウルは私の頭をくしゃくしゃと撫でて心底優しくした。
もう当分男なんて嫌だと思った心に、するりと入り込んでくる癖に下心は丸出しで。
でも憎めないおじさんだなと、受け入れてしまった自分が居た。
だって。優しい行為に泣いたり、前のことを思い出して泣いたり、ヒステリー起こして面倒な私に、嫌な顔ひとつしなかったから。

「どうした?」

でも不思議なの。

「ううん、私お肉食べたい」
「へいへい」

私、いつウルがいなくなっても大丈夫だよ。

「ね、煙草ちょうだい」
「ん」

行かないでと泣いて縋ったりしないよ。

「吸いさし……」
「良かったな、俺の吸いさしは高いぞ」

だからいつかいなくなるその日まで。

「っふ、あははは!」
「ったくお嬢さんにはこのダンディな魅力が理解できないのかねえ」
「ダンディだって。自分で言うの可笑しい」

私をうんと甘やかしてね。


2022.03.04