たとえばそれが無自覚な救済だとしても

書籍。文章、絵画などを筆写または印刷した紙の束をしっかり綴じ合わせ、表紙をつけて保存しやすいように作ったもの。書物。本。図書。

この世には何千冊、何万冊、数え切れない数の書物がある。多く存在するということは良いことのように思えるが、青年にとってはただ残酷でしかなかった。
探しても探しても諦めがつかない物事に囚われ続けているその様子を見て、周囲が止めるのも無理はない。
青年は表立って行動することを控え、人知れずひっそりと遠方の地に立ち寄った際にそれを探すことにしたのだった。

「…これも違う」
壁一面天井から床までぎっしりと書物の詰まった場所に、青年はいた。
古めかしくもどこか幻想的なその空間は、吹き抜けになっていて上の階層にも同じように書物が山のように詰まっている。
仕事で立ち寄った国の王立文学館だというこの場所に青年は、昨日も訪れていた。
そんなに高くはない背丈に細身の体躯。長い黒髪は後ろで結われていて、彼が書物を探して行き来する度にさらさらと揺れる。
膨大な書物を見つめる澄んだ紫の左目の下には黒子があり、それが青年の顔立ちを涼やかに見せている。
黒猫の魔法使い、と彼は人々に呼ばれていた。いつも共にいる黒猫を師と呼び慕っていることが語源であるが、その黒猫の姿は今は見えない。
黒猫の魔法使いである青年、もといリヒトは何冊かの書物を抱え、もう一冊を取ろうと手を伸ばすが僅かばかり届かなかった。
己の男性にしては低めの身長に溜め息を吐く。きっと自分より十数センチは高いあの人であれば手が届いたのだろう。
ほんの少し、あの人のことを考えただけで胸に苦い感情がこみ上げる。が、すぐに頭を振って此処は公共の場だと思い直す。
とりあえず脚立を探すか、と考えながら目当ての書物をもう一度見ていると、背後に慣れ親しんだ気配を感じた。
その人物は、すらりと長い腕を伸ばして書物を難なく手に取るとリヒトに差し出して口を開く。

「これか?」

低く通る心地の良い声にリヒトは顔を綻ばせて、背後の人物に寄りかかる。
相手は少し驚いた顔をしたものの、そのままリヒトを抱きとめた。
長い金髪に青い瞳、外套の付いた装飾の多い衣服を身に着けた顔の整った男だ。

「ありがと、ロア」
「疲れたんじゃないのか?こんなに書物抱えて」

ロア、と呼ばれた男がリヒトの抱えた書物を何冊かその手から取り上げる。
魔杖エターナル・ロア。それが金髪の男の正体である。平生は杖の姿であるが、人間や魔物の精神を乗っ取ることで人の姿になることが出来るのだ。
リヒトと契約しており、なんだかんだと面倒見の良いロアがいつも傍らにいるのが当たり前になってしまっていた。

「そういえば…今日は朝からずっと此処にいる気がする」
「もう夜だぞ」
「あれ、なんも食べてないや」
なんてことはないように呟いたリヒトに、ロアは少し表情を変えた。

「…また調べているのか」
「この前聞いた話が、忘れられなくてさ」

それは前の仕事で訪れた集落で聞いた、死んだ人間を蘇らせる古代魔法のことで。
リヒトは自分を救い庇って命を落とした男を蘇らせたかった。ただ、償いがしたかったから。
師である黒猫はきっとそんな危険なことは許してくれない。故に話したことはない。
だがどうしてだか、この杖である男にはなんだって話してしまう。忘れたい過去も、願いも。

「睡眠と食事はとれといつも言っているだろう」
「うん…なんだかロアの声を聴いていると眠くなるよ」
「それは…褒めているのか?貶しているのか?」
「ん、…好きな声」
「そうか」

普段よりも優しい声音で少し困ったようにロアが笑って、リヒトの頭をゆるりと撫でる。
本格的に眠りを誘うその手のひらの体温に、あくびをひとつ。

「ねむい」
「起きたら何か食べるんだぞ」
「うん」
こくりと子供のようにリヒトが頷く。
「やれやれ、手のかかる」
言葉とは裏腹に、嬉しそうに見える男が青年を抱き上げた。
「…え?まって、下ろしてロア」
「その状態で歩かせる方が時間がかかる」
「や、公共の場所でね、これは「安心しろ、殆ど無人だ」

その後も少しばかり抵抗の言葉があった気がするが、聞かなかったことにしてすぐ近くの宿までの道を進む。
日に日に軽くなっているリヒトのことを思えば、記憶を消してやった方がいいのかもしれない。
たとえロア自身が一生恨まれたとしても、忘れた方がいいこともある。そんなことは赤子の手をひねるより簡単なことだ。
なんとかしてやりたかった。魔杖である自分が何を言っているんだと思うが、永い時を生きてきたからこそこのままリヒトが囚われたまま一生を終えることに納得がいかなかった。
ただそれを消し去るということは、今までリヒトを形成してきた過去を全て否定してしまうことに他ならない。

「我も焼きが回ったな…」

一人の人間如きに執着を持つことなど。誰が思っただろうか。
人の子はすぐに死ぬ。ロアからすればそれはとても短くて、儚い存在だった。

「死んだ人間を生き返らせる古代魔法、だと?」
「うん、そう聞いた」
「そんな魔法があるとして、使っておいて術者が無事で済むとは思えんな」
「ロアがそう思うなら、きっとそうだろうね…」
「…何を考えているのか手に取るようにわかるが、やめておけ」
「でも俺はね、俺の命がなくなっても「それ以上続ければ我も黙ってはいられんぞ」
「ねぇロア、お願いだからわかって。俺は償いがしたいの」
「お前を失うかもしれん我の気持ちが、お前にわからないわけがない」
「…嬉しいよ、沢山の人の死を見送ってきたロアにそう思われる俺は幸せだね」
「他の人間の死など…魔杖の我が構うものか…!」
「大好きだよ、ロア」

矛盾ばかり抱えたあいつを、救ってやりたいと思ったこの思いの名前はなんだっただろうか。
色褪せた感情に、色が付き始めたのはいつだっただろうか。
無機質な杖のままで居たくないと、思ったのはなぜだろうか。

あの時償いだと言いながら、怯えた目をした人間。
好きだと紡ぐ一方で別れを紡ぐ無慈悲な人間。
もう忘れたいと吐きながら忘れたくないと吐く人間。
大丈夫だと笑いながら、寂しいと泣く人間。

誰もお前を、責めたりはしないだろう。
いや、誰にだって責めさせはしない。

「我は魔杖、エターナル・ロアだ」