最後はここに堕ちておいで

事は廊下で新シンがマシュに遭遇したことから始まった。
昼時にマスターを見かけたときに違和感を感じた、という話だった。

「よぉマシュ。マスター、なんか元気なくないかい?」
「先輩、セミラミスさんを召喚出来なかったのがだいぶショックみたいですね…」
「なるほどなぁ」
「全体アサシンのサーヴァントを補充したかったそうなんですが…その、私はこれからメディカルチェックがあって先輩の傍にいられないのですが…先輩のこと、おまかせしてもよろしいでしょうか…?」
「ああ勿論、いいよぉ」
「ありがとうございます!マシュ・キリエライト、行ってきます!」

快諾する新シンの言葉に安堵した様子のマシュが深く頭を下げた後、足早に目の前から駆けていく。
それを見送ってマスターのいるであろうマイルームへ足を向けた。

元気がないと行ってもマスターはいつもどおりに見えるものだ。
本人がそういった感情を悟らせまいとしているのはよく理解している。

「よっ!マスター」
「新シンさん、おかえり。どうかした?」

タブレット端末から顔を上げたマスターが当然のようにおかえり、と口にした。
マスターである彼のマイルーム担当は最初期から彼を支えている赤い弓兵と、彼の焦がれる黄金の英雄王たち、そして真の名も明かさないような無頼の自分がどういうわけか選ばれることが多い。
もとよりサーヴァントと親しくあろうとするマスターではあるが、前述した顔ぶれとはことさらに親しく誰かがマイルームへ来て、いらっしゃいと歓迎の意を示す言葉は帰る場所を指し示すおかえりに変わっていて。
そんなことをいつの間にか当たり前のように享受する自分に驚いたのはつい最近のことだった。

「アサシンの召喚、ダメだったんだろ?」
「ああ、マシュから聞いたの?」
「そうさね、朝から元気なさそうだったって話してたんさ」
「え、俺そんな顔に出てた?」
「いや?わかる奴にはわかるってだけだと思うよぉ」
「ごめん」

そんなつもりはなかったんだけど、と小さく呟く声は相変わらず自分と似ている響きを持っていた。
安心させるように笑いかけてやり、寝台に腰掛けるマスターの頭をわしゃわしゃと撫でて目の前に跪く。
彼の紫の瞳がきょとん、とこちらを不思議そうに見つめる。その姿はいつもより年相応に見えた。
自分より幾分か細い両手をぎゅっと握って、口を開く。

「俺じゃダメなのかい、マスター」

ぱちぱちと、マスターの長いまつ毛が上下に揺れて瞬きを繰り返す。
頭の中で言葉を何度も反芻したように見えた後、白い肌がうっすらと赤く色付いた。
ああ、自分はマスターの普段見せない表情を今まさに独り占めしているのだと優越感が胸に広がる。
無防備な彼を見ていると、つい悪い顔をしてしまいそうになるのだ。
もっと揺さぶって、絶望させて、最終的に地べたに落っこちたときに俺の名を呼べばいい。
そんな黒い感情を持っていることを、彼はどれぐらい知っているだろうか。

「すぐそういうこと言う」
「マスターにだけは言われたくないやね」
「お互い様ってことで」
「そうさね、そういうこった」
「…俺には、新シンさんがいればいいよ」

ああ、マスター。
真名も明かさぬ俺にここまで心を許して、そしてマスターの真名を俺も未だ知らないというのに。
こんな歪な関係に浸ったままで。
俺たちは互いの名前を知った時、どこまで堕ちている?

「なぁマスター」
「なぁに?」

後どれだけ堕ちていける?

「俺の真名を明かしたら、マスターの真名も教えちゃくれないかい?」

最後のピースがはまったとき、
マスターはどんな顔をする?

「……わかった、一緒に名前を明かすよ」

そんなことおくびにも出さずに俺は、今日もマスターの世話を焼く。
この手に堕ちてくるその日まで。