うららかな春の午後。3月とはいえど肌寒い気候が続いている中、今日は久々に暖かな空気に包まれていた。春風というのが相応しい、心地よい風を受けながら、テニスコートに向かって、学校の敷地内を歩く。三年生の先輩方が卒業したのがつい数日前。生徒の三分の一を失った学内は、どうにも人が少なく、こうして学内を歩いていても、すれ違う人が少なく感じた。

ふわりと、強い風が吹いた。何となくそれを追うように視線を風下へ向けた。校舎の影へ流れる風。芝生が揃って同じ方向へ流されている。

そんな中に、黄色いジャージを見つけた。

若干センスを問いたくなるその上下黄色のジャージを着た人物。それはこの学校のテニス部のレギュラーであることを示す。静かに目を閉じているその人物を、見過ごしても良かったのだが、確か男子も同じ時間に部活が始まるはずだ。このまま寝かせていては遅刻してしまうかもしれない。
少し考えて、足をそちらの方向へ向ける。銀色の髪が、陽の光でキラキラと輝いている。こんなに目立つなら自分が起こしに来なくても良かったかもしれない。そんなことを考えながら、傍に腰を下ろした。

「におー先輩!」

反応はない。よく考えたら、相手は自分のことを知らないかもしれない。向こうは有名人ではあるが、こちらは同じ部活の後輩。男女別で活動しているので、ほぼ接点もない。そんな面識のかけらもない女子に起こされても、嫌な顔をされるかもしれない。

「におーせんぱーい! 部活始まりますよー!」

それでも一度声をかけてしまった以上、ある程度責任を持って起こしにかかる。

「起きないなら置いていきますからねー! 真田先輩にちくりますよー!」

ぴくりと、体が反応した。真田先輩というフレーズのおかげなのか、横で大きな声を出し続けたおかげか。どちらにせよ、あと一歩のようだ。

「におーせんぱーい!」

薄っすらと瞳が開いた。覗き込むのをやめて、横でお行儀よく座ってみせる。

「……らきらしちょる」
「あ、おはよーございます」

ぼそりと何を言ったのかわからないが、寝ぼけながらも、何とか起きたようだ。この後すぐに地獄のような練習をして耐えられるのだろうか。きちんと目が開いたことを確認し、立ち上がる。

「目に入っちゃったんで一応起こしに来ました。大丈夫ですか、起きれます?」
「お前さん……」
「怪しい者じゃないですよ、一応女テニの一年です」

はい、と上半身だけ軽く起こした仁王先輩へ手を伸ばす。仁王先輩は、あぁ、と呟きながら、手を取った。

「丸井のことが好きな一年生か」
「はい!?」

思わず、パッと手を離してしまった。一応それを支えにしようとしていたらしい仁王先輩がバランスを崩して、また座り込んでしまった。

「あ、ごめんなさい! あいやそうじゃなくて、」

言葉が出てこなくて慌てふためく。まさか自分の存在を知らないと思っていた先輩が、そのような形で自分を認識していたとは。

「なんじゃ、違うのか」
「ちがっ……くないですね……」

多分、もはや否定は無意味だと悟った。鏡を見なくてもわかる。顔がこれだけ熱いのだから、仁王先輩にもわかるくらいには真っ赤に違いない。

「素直じゃな」
「まぁ嘘つくことでもないですし」

あの二人は仲が良いのかは知らないが、本人へ伝わってしまう可能性もある。それはそれで致し方ない。全く隠せていなかった自分の責任だ。

「手伝ってやろうか」

整った顔が、目を細めて笑いながらそう言った。思わずまじまじとそちらを見る。

「いや、結構です」
「即答か」

せっかくの申し出だが、びしっとパーを突きつけて、丁重にお断りする。ハイリスクローリターンにもほどがある。その反応がわかってたのか、大して驚くこともなく、くつくつと笑う先輩。

「当たり前じゃないですか! 先輩、周りからなんて呼ばれているか知ってます!?」
「さぁのぅ……」
「詐欺師ですよ、詐欺師! 実際のところ知りませんけど、詐欺被害には合わなくても、遊ばれそうです!」
「意外と真面目ぜよ」
「え、そうなんですか?」
「さぁ?」

完全にペースを持っていかれている。自分が騙されやすいタイプであることは認識している故、油断してはならない。
結局人の力を借りずにスッと立ち上がった仁王先輩は、相変わらず気だるそうに、それでいて楽しそうに笑みを浮かべながら、ポンと私の頭に手を乗せると、そのままぐしゃぐしゃと頭を撫でた。

「まぁ悪いようにはせんよ」
「どうにも胡散臭いです」
「お前さん、少し正直過ぎじゃろ」

警戒したまま手を退ける。正直言うと、本当はいい人なんじゃないかとも思える。実際よく知らない先輩ではあるし、噂だけを鵜呑みにするのは自分のポリシーに反する。しかし、どうにも行動が全て胡散臭い。それも全て計算なのかもしれないが、今の自分ではこれ以上、推理のしようがない。

「だってそもそも先輩にメリットあります?」
「……ある」
「え」

少し遠くを見るような瞳で、真面目な顔で、どこか寂しげな。元々美形な顔と相まって、それはそれはとても綺麗だった。この先輩にそんな表情をさせるのは一体何なのか。あまりに綺麗すぎてぞくりと体震えた。

「……ってことにしておこうかのぅ」
「はぁ???」

けろっといつも通りの表情に戻る仁王先輩。思わず大きな声が出てしまった。意味がわからない。何がしたいんだこの人は。というか面倒くさすぎるだろう。

「悪い悪い、ちょっと遊びすぎたぜよ。安心せぇ、誰にも言わんから」

なんのこと、と聞く必要はなかった。秘密にする内容など一つしかない。そういえば元はそんな話をしていたのだった。