わたしもいつか、あの風景を忘れてしまうのだろうか。わたしたちは時に正義で、時に悪だった。大義など、役に立たない。わたしたち小さな人間には、そんなものは背負いきれないのだ。

「……どうか、したのですか? ナマエ」
「光秀様」

 光秀様は立ち上がろうとするわたしをさっと優雅に制し、隣に座る。少しだけ、汗のにおいが鼻についた。これほど汗のにおいが似合わない武人もいないだろう。光秀様のつややかな髪に嫉妬しながら、わたしは空を飛ぶ鳥を意味もなく数えたりした。

「ここのところ、ずっと落ち着きませんね」
「そうですね」
「久しぶりだ。こんなにゆったりと夕暮れを眺めるのは」

 確かにそうだ。夕暮れを見つめながら、息を止める。この空の色が全てくらくなってしまうころには、わたしは苦しみを忘れていられるだろうか? しかし、ふとばかばかしくなって、ふうと息を吐き出した。横の光秀様を見ると、光秀様は空など見ていない。こちらをじっとみて、目を細めていた。(すべて、見透かされるみたいな、)

「今日は、かなり活躍されたそうではないですか。信長様が大層貴方のことを気に入られたようでした」
「そう、ですか……」
「なにかあったのですね?」
「……いえ、何も……」

 光秀様は、ふうと息を吐き、もう一度わたしを見る。心なしか、微笑んでいるようにも見えた。この世界に似つかわしい、なんとも美しく妖艶な笑みだ。

「あなたは嘘がとても下手だ」
「…………」
「そんなに泣きそうな顔をして。どこへ行こうと言うのです」
「……大勢の人がいたのです」

 今日は戦線がどんどんと下がり、わたしが遅れて参じる頃には城下町まで戦火が及んでいたのです。そこでわたしは敵兵を迎え撃ち、沢山功績を挙げた、わたしの勝利だ! と思った、とき、わたしは気付いたのです。そこには燃える町があり、民草の遺体があった。わたしが挙げた功績は、民の命ひとつも守ることはなかったのです。戦が終わったこの町にはもう誰もいない、けれどもここには元々大勢の人がいたのです。
 早口にその旨を言って、わたしは顔を伏せた。

「泣きたいのなら、泣きなさい。痛いのなら、痛いと言いなさい」
「光秀様、」

 久しぶりに涙を流して、泣くことはとても痛みを伴うことを思い出した。手で少し、頬の涙をぬぐったが、手の汚れでよくみえない。なんだかまるで涙が汚いみたいで、つい笑ってしまうのを、光秀様が不思議そうに見た。

「なんだか、汚いなあ、って思ったんです」
「涙が?」
「いいえ。わたしがです。光秀様」

 言い訳のように口走り、縋り付いても、光秀様は払いのけなかった。優しく包んでくれる。どうして優しいのだろう。優しさなんて、わたしを焼き尽くすだけで、一つも役に立たないのに。どうして、優しさを求めてしまうんだろう。

「ダメだな。わたしは、優しい人間にはなれませんね」

 わたしは少し笑った。涙は止まっていた。わたしの悲しみなんて、そんなものだ。

「優しい人間なんて、いないでしょう」
「あら。光秀様は、優しいですよ」
「私程度の優しさなど、誰でも持ち合わせているものです。あなたでも」

 空を飛ぶ鳥はもういない。日がすっかり暮れて、空気はひんやりしてきた。縁側にいつまでも座り込んでいるのは得策とは思えなかった。でも、わたしは、光秀様の隣から、動けない。

「次泣きたくなったら。また、光秀様の隣で泣いてもいいですか」
「もちろん」

 光秀様がいなくなってから、もう一度泣いた。しばらく泣いていた。わたしたちは時に正義で、時に悪なのだ。優しい人間には、なれそうもない。


clam
(110815)afterwriting