※ややバイオレンス※

























 そうそう、忘れてた。別れ際、イルミはそう言って、一度帰路へと向けた背をくるりと反転させこちらに戻ってきた。つかつか、なんて厳格な音が似合いそうな様子で(まあ現実には足音なんてしないんだけど)、もちろんいつもの感情のないお人形さんみたいな顔はかわらない。

「香水してるの?」

 イルミがそう言うが早いか。私の右手はギリギリと締め上げられていた。痛いと思った時には既に肩がどうにかなっていて、ごきゅ、なんて間の抜けた音はその後に聞こえるくらいだ。「痛い痛い痛い、」私が口から情けない声を漏らしたのは、イルミが肩をすっかり元に収めてから、もちろん、元に戻すための、ぐごん! なんて、くぐもった無愛想な音はいつのまにか過ぎ去っていて、後に残るのは私を覗き込むまっくらなイルミの瞳と、意味のない激痛が蔓延るわたしの肩だけだ。

「してるの。してないの」
「う、あ、、してない、」
「だよね」

 胸の上、鎖骨辺りにイルミが鼻を寄せる。今この場で聞こえるのは、私たち二人の吐息だけだった。もしかするとそれは、端から見れば甘美に映ったかも知れない。右肩を庇いながらも、私は恥ずかしさに顔を背け、必死になんでもない顔をして辺りを見回した。人に見られたらどうするの、なんて考えるが、かの悪名高いククルーマウンテンの麓、それも観光地になっている正門とは反対側のここに、私たちを揶揄する人などいるはずもない。

「これ、誰のにおい?」

 イルミは腰を屈めたまま、私のマフラーを摘んで言った。私の瞳を覗き込む双眸は相変わらず晦冥だ。私は、あーとかうーとか、ばかみたいに唸ることしかできない。それがイルミの機嫌を更に損ねることになるとはわかっていても、口から出てくるのはそんな意味を持たない風声ばかりなのだ。

「ねえってば」

 ばあん! 今度は音が先だ。次に視界。流れるように移り変わる景色はびっくりするくらいスローモーションで、目の端にはイルミの無表情が映り込む。最後に、衝撃、そして痛み。

「あが、、」

 先ほど痛めたばかりの肩がざーっと地面をこすり、喉の奥から可愛げのない吐息が吐き出されて初めて、イルミに横っ面を張り飛ばされたことに気付くのだ。

「昨日。ここに来る前に男と会ってたんだろ」
「う、ちが、、」
「誰?」

 顔をまともに殴られて、うまく喋ることができない。顎ががくがくして、もちろん口の中は血の洪水だ。顔は痛みのせいで生理的に出てきた涙の洪水でもある。イルミはそんな私を面白くもつまらなくもなさそうに窺い、苛ついたように瞬きを数回した(見てわかるほどイルミが苛つくのは珍しい)。

「誰と会ってた?」

 ぐ、と引き寄せられる感覚。そう、いつもそうだ。この人は、私の感覚を軽々しく凌駕して、五感を置いてけぼりにする。荒っぽいキスをされたのだと気付いたのは、唇が離れた時だ。

「ひどいな。ナマエの口の中、血だらけだ」
「イル、が、やった、んじゃない」
「そうだっけ?」

 飄々と首を傾けて、イルミは私の腔内から舐め取った奥歯をひとつ吐き出した。いつの間に抜けたのか、舌で確認すると、左上にはかつて歯が生えていた筈のくぼいが生じている。その間もイルミは、小石のように転がる白い粒をしばらく眺めていた。

「そのにおい、どこかで嗅いだことあると思ったんだよね、そう。ヒソカの香水のにおいだ」
「ち、違う! 違くない、けど、、イル、待って、なぐらないで」
「殴らないよ」
「あ、あのね、」

 ようやく落ち着いて喋れるようになり、体中の傷から流れる血を一つ一つ手で拭いながら私は言った。

「昨日の昼間、イルに会う前。たまたまヒソカに会ったんだよ」
「やっぱりヒソカとセックスしたんだ」
「は?! ち、違う、ちょっと待ってよ、その時、貸してた包帯を返されたの。だからヒソカの香水が移った。ほんとうにそれだけ!」
「……ふうん」

 イルミは納得したのかしてないのか、口を窄めるだけで、それ以降何も言わなかった。ただ、涙と血でぐしゃぐしゃになった顔を黙ったまま親指で拭ってくれたので、許してはくれたのだろう(私はまた殴られるのかと思って目をぎゅっと瞑ってしまった)。そのまま、黙って街の方へ歩き出す。

 来週も再来週も、恐らくわたしはここに来るだろう。こうしてたまに血腥いことはあるけれど(とはいえ血を流すのはたいてい私だけだ)、私はイルミを愛している。たぶん、イルミもそうだ。
 さっき、私はいくつか嘘をついた。イルミに会う前に会ったヒソカとは会話をしただけなのは本当。でも、香りがついたのは多分その前で、一昨日の夜についたものだろう。髪や体はしっかり洗い、服は違うものに着替えてきたのだが、マフラーにも香水が移っていたとは、盲点だった。もしかしたら、ヒソカがわざとマフラーに香水を振りかけたのかもしれなかった。
 イルミは私の嘘に気付いているだろう。それでも彼は、来週も再来週も私を受け入れる。私がいつもどこか、他の男の香りをさせていたとしてもだ。そういうものなんだと思う。愛してくれる男はごまんといても、血で一杯の口から舌で奥歯を絡め取るような人はイルミくらいのものだから。



incidence
(120117イルミに殴られたり愛されたりする話)