※大学生




 都会の真ん中にぽっかりと広いキャンパスを持つ、文系の大学。
 私はここで冴えない勉強をする冴えない学生だ。というのはまるで甘えで、いつも熱心に勉強や恋愛をする賑やかな友人たちに混ざり、灰色のため息を吐いている、そんなつまらない人間が、私だ。ふと、食堂の端に貼ってあるポスターに目をやる。『失敗を恐れて行動しない若者たち』。なーんて、ぴったりすぎて、反吐が出る。

「ごめん。私、サークル行くね」

 はーい、またねナマエちゃん。キラキラと見送ってくれる友人たちを尻目に、食堂を出てサークル棟へと歩を進めた。サークル棟の地下にあるピアノ室。平日のこの時間は、うちのサークルメンバーなら出入り自由だ。学生カードをカードリーダーに通し、防音の施された扉を開けると、幸い誰もいないようだった。サークルメンバーのうち、同期とは気が合ったが、どうも先輩とはうまくいかない。いつも肩身の狭い気持ちで、人のいない時間を狙っては、このピアノ室へ顔を出していた。

(コンソレーション、慰め、 第3番)

 今、練習している、最も苦手な曲だ。左手が上手く動かず、アルペジオが決まらない。難しい曲ではないらしいのだが、ピアノが元々苦手な私には、この曲を簡単だと言う人たちの気持ちがわからない。子どもの頃から、親に言われるがまま、習い事のピアノをだらだらと続けて、ついにはピアノのことを嫌いになってしまった。大学に入ったものの、勉強はつまらなく、サークルに入ろうと思うもののやりたいこともなく、結局まただらだらとピアノサークルに入ってしまった私には、この曲のよさなど、わからない。

(また、この左手のアルペジオ……)

 いつも同じところで間違える。

(また……)

 嫌い。嫌いだ。こんな曲。

(また!)

 ……じゃん。力なくピアノの鍵盤にしなだれかかり、防音の厚い扉を見つめる。今、私のことを考えている人は、多分誰もいない。勉強も人付き合いもピアノも全部、うまくない、そんな私のこと。



「お、やっぱり」

 ぎい、と重たいドアが開く音がしたのは、私がピアノを弾くのをやめて15分ほど経った頃だ。私は飽きもせずピアノにしなだれかかり、綺麗でもなく、汚くもない爪を眺めているところだった。

「毎日この時間。リスト弾いてるのお前?」
「…………そうだけど」
「ふぅん」

 突然入ってきたこの男は、勝手に丸椅子を引っ張り出して座り、私の目の前へとやってきた。この顔、見たことがある。そう、そうだ、学部の女の子が星の王子様と言って騒いでいた、イケメンとかいう、仏文科の男の子だ。

「防音室だけどさ、ちょっと音漏れるんだよね。俺この時間、隣の自習室いるから。聞こえるんだ。あんたのピアノ」
「……だから何」
「別にどうってことじゃないけど。下手くそだよね、ピアノ。ピアノ嫌いなの?」
「…………別に」

 ピアノが嫌いか? と聞かれて、うんとすんなり答えるほどには、ピアノを憎みきれなかった。それに、いきなりやってきてにやにやしながらそんな失礼なことを聞いてくるこの男に腹を立ててもいた。やっぱり、嫌いだ。この男も、ピアノも。

「ぶっさいくな音出してるから、弾いてる人も不細工なのかと思ってたんだけど。今日はじめてあんたが入ってくのみえたら、違ったから」
「…………」
「ピアノは不細工だけど、あんたは可愛いんだね。名前、教えてよ」

 私はずっと、平和を願ってきた。平和を願うフリして、何もせずに灰色のため息を吐いてきた。良くも悪くも、そんな生活に終止線を引いたのは、この男だ。

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(120217)