朝起きて気付くと、声が涸れていることはもうほとんどなくなった。誰か、誰でもない誰かを恨んで夜通し泣き叫んでいたのだ。もちろんこのことは多分誰も知らないし、誰も興味を持たないだろう。部屋にはしっかりと防音が施されているし、朝枯れた声で挨拶を交わすような人もいない。
 朝日で目が覚めると扉の外にはすでに冷えた朝食が置いてあり(もしかしたら夜のうちから既に置いているのかも知れない)、ぼそぼそと食べながらその日読む本を選ぶ。選んだ本を読んでいると昼になり、扉を開けると昼食が置いてある。それをまた食べながら……と繰り返すうちに、また夜になる。こんな生活を続けていては、泣き叫ぶ気力などすぐ失ってしまうのだ。
 ただ時々、悪夢に追われては、誰でもない誰かを恨みたくなる。遙か遠く夜空に輝く星々さえも、恨めしく感じたりするのだ。そんな灰色の生活に、彼がするりと侵入してきたのは、いつの事だっただろうか。「よォ、ナマエさん。また来たぜィ」
 この部屋はビルの7階にあるため、どうやって入ってきているのかはわからない。だがとにかく、午後の本を読み終わり顔を上げるといつも、窓のさんのところに彼が座っているのだ。

「今日はまた一段と顔色が悪いですねィ」
「あんまり食欲がなくて。お昼を半分残しちゃった」

 本を仕舞いながら言うと、沖田さんは困ったように首を振った。二人分のお茶を用意すると、勝手知ったる人の部屋、沖田さんはクローゼットの横に立てかけてある折りたたみ式の椅子を一脚取り出し優雅に腰を落ち着かせた。

「ねえ、今日はどんな話をしてくれるの?」
「今日は……」

 沖田さんはいつも、この部屋から出られない私のために色んな話をしてくれた。お江戸の街の様子、面白いお友達の話、悪い天人と戦った話。私の病が、実は人には伝染らないものであると、教えてくれたのも沖田さんだった。 沖田さんの話はいつも面白く、彼が物語る世界だけがわたしの世界だった。嘘か真かなんて、わからない。そんなことはどうでもいい。彼こそが私の世界、彼こそが私の世界の王子様なのだ。

「おっと、もう時間でさァ」
「もう、行っちゃうんだね」
「もっと話していたいのは山々なんだけどねィ」
「ありがとう、ごめんなさい。沖田さんにも仕事があるのにね」
「ナマエさんと話すのは楽しくて、時間を忘れちまう」
「そんなこと、言ってくれるのは沖田さんだけだよ。でもごめんなさい、気色悪いでしょ? 伝染らないとはいえ、こんな私のそばに……」
「おっと。」

 沖田さんはわたしの爛れた頬にそっと口づけた。

「何が伝染るって?」

 悪戯っぽく片目を瞑り、沖田さんは内へ続く扉を開ける。
 窓からやってきて、扉から出て行く。この行動の意味を、私は理解しているつもりだ。私の父は、確か大きな両替商の元締めであったと記憶している。 お役人に顔向けできないようなこともしているのだろう。こんな部屋で不自由なく一人暮らせているのはその父親の働きのお陰だが、伝染りもしない病を患った娘を、忌み嫌って閉じ込めるような父親だ。取りつぶされてしまえ、と思っていた。ましてや、それをしてくれるのが、沖田さんなら。私をこの塔から救ってくれるのが、沖田さんなら。

「じゃあ、また。次はおてんとさんの下で」
「はい!」

 これはいつもの別れの挨拶だ。私が太陽のもとに出られる日はいつになるだろう。扉をそーっと閉める沖田さんの手を最後まで見つめてから、ベッドに戻る。今日も彼を思いながら、眠ろう。私の王子様が、私の世界を壊してくれるまで。

青の塔
(120229)