窓の多い、明るい部屋だった。明るすぎる部屋だったとも、言えるだろう。特に夕方の西日は強すぎて、明るいうちからカーテンを閉めてしまっていたため、反対に暗い部屋だったとも言えるかもしれない。しかしそんなことは今となってはどちらでもいいのだ。ただとにかくわかっているのは、この部屋は今の今までわたしの部屋であり、明日からわたしのものではなくなるということだ。

「ナマエ」

 音もなく、部屋に入ってきたのはイルミだった。彼の顔はよく見えない。遮光カーテンを閉め切り、電気も付けずにいるのだから当然だろう。だがさすがイルミは違うようで、わたしのところへ迷いなくやってきて、頬に優しく手をかけた。口づけは荒々しく、どこか優しく、まるでわたしのことを探しているようだ。わたしはここにいるのに。不思議と、涙は流れなかった。わたしも貪るように、手探りでイルミの頬を両手で包む。

「最後の夜だ」
「最後の夜ね」
「最初の朝だよ」

 わたしは首を振ることも、頷くこともできずに、イルミから手をそっと離しそのまま自分の衣服の裾をきゅっと掴んだ。そう、明日の朝から、わたしはこの部屋から出て、二つ隣の部屋に移ることになる。明日。ミルキの部屋に入る、最初の朝。

「ナマエがオレを捨てる最初の朝だ」
「そんな言い方、やめて」
「ふむ。じゃあ、こうだ。初めてできた大切なものをオレが失う最初の朝」

 わたしはもともと、投げ捨てられるようにやってきた、ゾルディック家の花嫁候補の一人だった。家柄がパッとしない分、修行についていこうと必死だったことを覚えている。そうしているうちに、いつのまにか、大勢いたはずの花嫁候補はわたしだけになっていた。生まれたときからゾルディック家に嫁ぐためだけに厳しく育てられてきたわたしには、キキョウさんによる花嫁修業は手ぬるいと感じるほどだった。そんなわたしを、キキョウさんは歓迎し、たくさんの花嫁候補の中からただ一人、本邸に部屋を与えられることになった。それが、2年前の話。

「わたしだってそう。知ってるでしょ。わたしだって、大切なものを失うの」
「知ってるよ。知ってる」

 兄弟のうち誰と婚約するかは決まっていないまま、わたしは2年あまりを本邸のこの部屋で過ごした。流れるような時間の中で、年の近いイルミと懇意になっていったのは、誰が見ても予想できたことだっただろう。わたしたちは、幸せだった。幸せの中を過ごしていた。二人の間にしか存在しない、繊細で複雑で宝石のような時間の流れを、共に紡ぎ出しながら。

「叶うなら、逃げ出したいよ」

 イルミの悲しそうな表情は本当に苦手だ。まるでお人形さんみたいに、まるで感情がないみたいに、見せておいて、時折そうやってひそやかに感情を見せるのだ。わたしは項垂れる。昨日のことだ、キキョウさんが突然、甲高い声でわたしに「決めました」と告げたのは。「決めました。ナマエさんにはミルキと婚約してもらいます。おめでとう」

「ナマエはひどい。オレを縛り付けておいて、自分は別の処へ行ってしまう」
「わたしだって、できることならあなたのところにいたい。でもできない」
「わかってるよ。わかってるよ……」

 手塩をかけて育てた長男に対する、母親の歪んだ愛情。夢中になっていたおもちゃを取り上げられた子どもが、母親に縋り付いてくるのを今でも夢見ているのだろうか。でもわたしにそれを批難する術などなかった。長男のおもちゃであることを辞め、これから次男の人形となるわたしには。
 カーテンの隙間から漏れるあかりが、徐々に白く明るくなっていく。つう、と自分の頬を涙が流れるのを感じた。自分はいい。でも、イルミの涙なんて、見たくなかった。ましてやそれを流させたのが自分であるだなんて。イルミの頬に再び手をかけ、涙を拭ってやると、イルミは幽かに微笑んだ。ああ、最後の夜。最初の朝。

「もう、さよならだよ」
「ちがう。さよならじゃない」
「さよならだよ。もう、キミはオレのじゃない」
「二度と会えないわけじゃない」
「二度と触れ合うことはできない」
「ねえ、お願い。お願い、イルミ」

 許して、そんなわたしの呟きは、彼に届くことはないだろう。わたしは必死に涙を拭う。あなたは兄。今日から、あなたは、兄。呪わしく美しい朝を、わたしたちは迎える。



(20120314)