ちいさい部屋に、溢れんばかりの人、人、人、そして耳が痛くなるようなダンス・ミュージック、歓声とも悲鳴ともつかない嬌声。しかしそれらは、実際にはわたしの元には届いてくることはない。地下へ続く階段を、降りたことは一度もなかった。考えるだけで、頭痛がする。若者というのは、ああいった場所へ興味を持たなければならないという決まりでもあるのだろうか。昔、皮肉混じりにそう尋ねた私に、ゼロスは爽やかに、「そうに決まってンだろ?」と言いのけた。
 もう何度目かもわからない溜息を吐き出す。いつからか白くなった吐息は、季節が移り変わったことをありありと見せつけてくれた。車のキーをくるくる、手持ちぶさたに回していると、地下への入り口が開かれたらしく、中の音楽がわたしの耳まで届く。

「ええー、ゼロスくん、帰っちゃうのぉ? たまにしか遊べないのにい」
「そりゃしゃあないっしょ〜。オレ様、神子様だもんよ〜」
「じゃあまた今度、遊んでね?」
「も〜ちろん。ほら、こっち向いて……」
「ん……」

 もちろん、こんな会話や沈黙までも耳に入れたいとは一つだって思っていない。ふう、ふう、息が白くなるのを無心で眺める。随分長いこと外にいた所為で、体が冷えてカタカタと震え始めていた。息を吐き出す度に、抑えきれないイライラが指先にまでも伝わって(カシャン、)偶然、鍵が音を立ててしまった。

「ちょっと〜無粋じゃないのよナマエちゃん」
「ゼロス」

 ゼロスはまるで、わたしがここで聞き耳を立てていたことなど、気にしていないようにしらじらと姿を現した。中は暑かったのだろう、ゼロスはジャケットを腕に持ち、薄着のままやってきていた。

「12時」
「あー……」
「約束の時間は11時。もしかしてわざと怒らせてる?」
「ご〜めんってナマエ〜。そんなに怒んないでよ〜。可愛い顔が台無しよ?」
「いいから早く車に乗って。あんたの薄着、見てるだけで風邪引きそう」
「へいへい〜っと」

 ヒーターを付けっぱなしだった車内は暑いほどだった。ギアを入れ走り出すと、ちょうど図ったように雪が降り始めた。

「おっ、雪だ。ロマンチックだね〜。オレ様と一緒に見られたナマエはラッキーだ」
「馬鹿言わないで、この車チェーン載せてないんだから。うちにつくまでに酷くならないことを祈っててよ」
「へいへーい」

 助手席のゼロスは幾らか機嫌よさげに、腕を頭の後ろで組んだ。あと10分程でうちに着く。早く着いて欲しいような、それとも永遠にこうしていたいような、わたしはいつも、車の中でこの思いに苛まれる。

「そういやナマエ、外で待ってた? 車の中にいればよかったのによ〜。そんなにオレ様が待ち遠しかった?」
「……直前まで、いたよ。車の中に。」
「うっそだ〜。だってナマエ、震えちゃってたもン。車の中やたら暑くなっちゃってたし〜」
「……」
「女の子は体冷やしちゃダメなんだからさ〜」

 わたしはこういう、ゼロスのこういうところが、大嫌いだった。女の子としてなんて、見てくれていない癖して。わたしがどんなに待ち遠しかったか、知らない癖して。

「そう思うんだったら、ちゃんと約束通り来てよね。大体、迎えに来てやってんのも泊めてやってんのも全部慈善事業なんだから」
「あーもう、ナマエは折角可愛いんだからあ、そういう口うるさいとこ治してこーぜ〜」
「だらしない幼なじみを持った者の宿命だよ」

 ちかちかと、青い信号がいもしない歩行者を促す。この青が赤になり、そして目の前の赤が青になれば、すぐわたしの家だ。家に着いてしまえば、ゼロスとわたしは当然のように眠りにつき、明け方日が昇る前にゼロスは家へと帰っていく。わたしはゼロスの眠っているときの顔を知らない。

「全く、ナマエが幼なじみで本当によかったぜ」
「わたしは便利屋さんとして使われて不幸な限りですよ」
「ほら、そーやってすぐグチグチゆ〜。オレ様がこんなに頼りにしてんの、ナマエだけなのにさ〜」
「はいはい、ありがと」
「ったく、可愛げねーなー」

 駐車場に着き、ハンドブレーキをギッと上げると、ゼロスはひとつ、ふうと息を吐き出した。この人は、どれだけの仮面を持っていて、使い分けているのだろうか。わたしの前ではせめて一番薄いものを被っているということを願うけれど。(この人は誰の前でもきっと、仮面を脱ぐことはないのだろう)。

「着きましたよ、王子様」
「おうおう、くるしゅーない。ってぇ、神子様もいーけど、王子様もいいねぇ。オレ様、王子様に転職しよっかな〜」
「いーから、早く車降りて。うちの鍵、あるでしょ。車庫入れたらすぐ行くから先に入ってて」
「へーい。んじゃ、お言葉に甘えて。しっかし、ナマエは何でもできてすげーよなー。オレ様も車の免許とろっかな〜」
「ゼロスも免許取ったら、」

 ゼロスも免許を取ったら、わたしは彼にとって必要がなくなってしまうかもしれない。こうやって夜遊びの度にわたしを頼ってくることもなくなるかもしれない。わたしはきっと、彼に見捨てられる。わたしはずっと、彼を見捨てることなどできないのに。ズキンと痛んだのは、頭か、心臓か。

「ひどくなるでしょうね、夜遊び」
「相変わらず、手厳し〜」

 ゼロスは後部座席に放ってあった上着を取り、ドアを開けた。外に出たゼロスの息は白い。ゼロスは上着を着ながら、ドアに手を掛けた。

「俺のこと、見捨てないでよね〜。ナマエちゃん」

 見捨てるわけない、見捨てられたら、どんなに楽かしら、ゼロスくん。

Daffodil
(121207/200527タイトル変更)