それは単なる気まぐれだった。2日酔いを持てあましながら、街をなんとなしに歩いてみれば、幼い子どもが自分の足下を駆け抜けながら「奇術師がいるんだよ、ママ!」なんて言うものだから。少しばかり傲慢な戯れ心が疼き、歩を進めたまでだ。
 普段は閑静なこの街も、休日となれば多少賑やかになるもので、商店は人で賑わい、大道芸人がそこらにいる。その中心に、サーカス団のテントは我が物顔で鎮座していた。

『奇跡の猛獣イリュージョン!』
『スペクタクル大ブランコ!』
『決死の空中アクロバット!』
『世紀の魔物ショー!』

 サーカス団の演目は、色とりどりの垂れ幕によって知ることができる。テントの前では泣き笑いのメイクをしたピエロ達が必死に愛想を振りまいていた。ボクは少し笑う。今日ボクはメイクをしていなかった。そう、今日は、キミたちがピエロ、ボクが観客だ。なんて、どうでもいいことを頭の中で嘯いて、テントに入った。


 客席は意外にも空席が多く、客足はまばらなようであった。しかしどうも空席に座る気にはなれず、後ろの柵に寄りかかりショーを眺める。

「玉乗りゾウさんに拍手〜!」

 陳腐なショーは、ボクを退屈させるのには十分だった。あくびをかみ殺して、いつどのタイミングでここを去るかを考え始めたとき、甲高いアナウンスが次の演目を告げる。

「さてさてお待ちかね! 今世紀最大の悲劇! 魔物ショ〜!」

 なぁんだ、次も相変わらずつまらなさそうだな。もういくつめかもわからないあくびをかみ殺したとき、ステージの奥から何かが現れ、それと同時に、どよ、と観客がざわめいた。

「ハーイ! それでは皆さぁん、拍手〜! 悪魔の少女、ナマエちゃんで〜す!」

 陽気なMCに促されても、観客席のどよめきは止まなかった。ステージの中央には、鎖で繋がれた少女と、その鎖の先端を掴み、少女を引っ張る大男が立っていた。少女は酷く俯き、表情を見ることはできない。最低限の薄汚れた衣服のみを身につけ、首と四肢に鎖に繋がれた少女が晴れやかな笑顔であるとは到底思わないが、何故かその顔を見たいと、強く思った。

「さぁみなさん、驚くなかれ。このナマエちゃん、な〜んと、魔獣と人間のハーフなんです!」

 アナウンスを合図に、ガシャンと大男が強く鎖を引くと、少女は前のめりに転びそうになりながら、背中から大きく黒い羽を出した。バサァ、と下品な音は観客達を圧倒し、異様な沈黙がテント内に充満する。

「見てくださぁい! この醜い体! 醜い羽! 悲劇の生きもの、ナマエちゃんは、頭も悪く、羽を出すことしかできないので、魔獣としても落ちこぼれです! しかぁし、我らサーカス団がナマエちゃんをこの煌びやかなステージに誘うことで、彼女は本来の価値を見出すことができるので〜す!」

 少女は煌びやかとは到底言えない身なりをしていたし、大男が鎖をシャンと鳴らすたびに少女はびくと肩を震わせたが、 甲高い声の司会にはそれは関係ないらしい。大男が軽く少女を蹴ると、少女は大袈裟に吹っ飛び、ステージ下手に転がった。下手側の観客は悲鳴を上げ、上手側の観客は歓声をあげる。初めは一種異様な状況に尻込みしていた観客達も、やたらとテンションの高いパフォーマンスに負けたのか、会場は少しずつ熱を持ってきていた。

「おお、おお、可哀想に! でも大丈夫。ナマエちゃんは悪魔の子、痛みなんて感じないんで〜す!」

 つんざくようなMCは、頭にガンガンと響き、頭痛がしてきた。ああ、そういえば今日2日酔いだったんだっけなあ。 今の今まで忘れていた自分の体調を思い出し、ボクはテントを後にした。背中から、ガシャンガシャンという鎖の音と、いつの間に出したのか空を切る鞭の音、その度わぁっと沸き上がる観客の歓呼の声が後を追うのが聞こえた。





「ひ、ひい……!」

 弱い奴が吐く悲鳴というものはどうも2日酔いと相性が悪い。弱者の木霊が脳内で反響し、胃のむかつきを増幅させるかのようだった。弱くて無価値なだけでは飽き足らず、こちらのアセトアルデヒド分解不全による体調不良を煽ってくる害悪だなんて、なんと強欲なことか。

「ゆ、許してく、うわあ!」

 男は懺悔の言葉も言い終わらないうち、事切れた。そもそもボクに懺悔しても何かが変わるわけがない。ボクは別に、断罪しに来たわけではないのだから。
 昼間、あんなに街を賑わせていたサーカス団も、深夜になれば当然静まり返る。今度はきちんとメイクをして、勝負服に着替えてきたよ。なんて似つかわしいだろう。そんなことを思いながら宿営場所を歩き回れば、檻に入る猛獣たちがこちらをギロリと見た。哀れな動物たち。 自分よりも弱きものに飼われる動物たち。ボクは笑みを押さえきれず喉で笑った。

「こんばんは。魔物少女」

 しばらく奥へ歩いたところに、その少女はいた。他の動物たちとは違い、檻ではなくご丁寧にガラスのケージに入っていた。 ぽつぽつと開く空気穴が、逆に閉塞感を増している。

「…………」
「狸寝入りかい? ナマエちゃん」
「……うるさい」

 名前を呼べば、少女は素直に返事をした。なるほど、確かに頭はそれほどよくないようだ。客席の一番後ろから遠目に眺めたときよりも、いくらか綺麗な布を身につけていた。やはり表情は暗くてよく見えない。

「冷たいなあ。キミにわざわざ会いに来たんだけどな」
「…………あんた。今日の昼、立ち見でいた人でしょ」
「おや。よくわかったね」
「客席はたくさんあいてたのに立ってたから覚えてた。立ち見の客なんて滅多にいないし。それにその髪の色」
「く、く。なるほど」

 少女が微かに動く度、鎖がぶつかり合う音が耳に届いた。このサーカス団にこの些細な音を聞きつけるような輩はいないように思ったが、少女は鎖の音が大きく鳴るのを恐れているようだった。そのため酷く緩慢になる動作は、見ていて飽きない。

「どうしてわたしなんかに会いに来たの。あんたもわたしを笑いに来たの? それとも、また石を投げに来たの? お生憎だけど、今はガラスの檻だから、石は入らないよ」
「まさか、そんな間抜けな奴らとボクを一緒にしているのかい?」
「あんたは、違うって言うの? だいたい、ここへ入るとき、守衛がいたでしょう」
「ああ、守衛ってあの。」

 ボクはもう、さっきの懺悔男の顔も思い出せなかった。「ねえ」しかしナマエは苛立つように怯える。「そうだ。守衛がくる! 今日の当番はあいつなんだよ! あいつが来たらあんたもただじゃすまないよ!」

「あいつ?」
「わたしを我が物顔で蹴ってたあいつだよ! 自分のこと悪魔飼いとかなんとか呼んじゃって。ねえ、こんなことしていて後でなぐられるのはわたしなんだよ!」
「ふむ」

 ナマエの話を聞くに、どうやらその懺悔男改め、悪魔飼いの男はこのサーカスでも一番の力自慢の乱暴者であり、この半人の少女を担当する『飼育員』でもあるらしかった。 ナマエは哀れにも震える肩を自分で押さえ、こちらを恨めしそうに睨む。

「あいつはきっとこう言う。"この悪魔! 侵入者の手引きをしたな!"って。あいつ、わたしのことを屑ほどにも思っていないくせに、心のどこかで恐れているんだ。本当に悪魔なんじゃないかって。だから、わたしを殴る。その恐ろしい悪魔を制圧したと思いたいから」
「でもキミは悪魔じゃなくて魔物だろう?」
「そうだよ。悪魔だったらとっくに呪い殺してる」

 ナマエは喉を鳴らして笑う。相変わらず暗くて顔はよく見えなかったが、ボクも愉快になって少し笑った。

「いいこと教えてあげる」
「え?」
「だからもう少しこっちへ来て」

 ナマエはおずおずとガラスの壁際にやってきた。まだ顔はよく見えない。前髪が長すぎるのだろう。「前髪をあげて。顔をよく見せて」。ナマエは従順に前髪を手でわける。鎖を鳴らさないよう丁寧に。今日突然やってきた不法侵入者のボクのいいなりになって、なんて馬鹿な子なんだろう。

「その男のこと。ナマエは嫌いなんだね」
「好きなわけない。大嫌いだよ」
「そう。ならよかった。さっき殺しちゃったから」
「え?」

 ナマエはようやく、こちらを見る。まんまるの目をいっぱいに開いて、こちらを見る。

「ああ、やっと顔が見えた」
「こ、ろした、って……」
「うん。ボク、悪魔だから」

 ナマエは、ガラスに張り付くように、ボクを見た。もう鎖の音が鳴るのを抑えようとはしなかった。ナマエは涙を流す。「あくま、なの?」

「そうだよ」
「悪魔だから、魔物のわたしを救いにきたの?」
「それはちがう」

 ガラス越し、ボクはそっとナマエの頬を撫でる。

「キミに絶望を教えに来た。自由を知っても、自由になれない絶望をね。」

 朝を告げる、ラッパがなる。ボクは静かにサーカスを去る。あの子はきっと、死ぬまであそこにいるだろう。知らない方が幸せか、知っている方が幸せか。 ボクは悪魔なので、そんなことは選ばせてあげないのだ。

悪魔の数だけ幸福があり、
(120901)