空が囚われている。ビルとビルの間を張り巡らされた電線に、そう思わざるを得なかった。太陽だけが馬鹿みたいに暑い。その間を、こぼれ落ちる泪をぬぐいながら、早足で駆け抜けた。全てを投げ出してどこかへ行く勇気なんて、持ち合わせていなかった。とにかく頭をからっぽにしたかった。路地を右に曲がり、左に曲がり、辿り着いたのは人気のない公園だった。その真ん中に、ぽつんと誰かが倒れ込んでいた。ぼろぼろの男の子。はじめてクラピカに出会ったとき、そう思ったことを覚えている。





「だから。雨が降ってるときは部屋干しにしなきゃ。この間も言ったじゃない、クラピカ」

 クラピカはすこし困ったように笑って、カップからコーヒーをすすった。「すまない」

「小雨だったから、平気かと思ったのだよ」
「小雨でもダメなんだって。あーあ、これもう今日中には乾かないよ」
「雨の日でも乾かせるよう、乾燥機を買ったらいい。この間セールスが来てたろう?」
「あのねえ、うちにはそんな物買う余裕はありません!」

 てきぱきと部屋中に服を干していくわたしを後目に、クラピカは足を組み替えたりしている。相変わらず優雅なことだ。わたしのことを彼はよく『忙しない』と評したが、彼の方が『優雅すぎる』のだ。まるで生活の速度が違う。こっちは何回赤信号で止まらずに済むか必死で計算しているというのに、きっと彼はそんなわたしの頭上をすうっと飛行船で通り過ぎていってしまうだろう。

「それじゃ、お昼は適当にチンして食べてね。電話が来ても私はいないって言っていいから。鍵はここね。出かけるときは鍵をかけて、一応電話を持ってね。あとは……」
「あと、大家さんに会ったら挨拶してね、だろう? ナマエ、大丈夫だよ。そんなに毎日毎日同じことを言わなくても」
「だって。クラピカってまるで常識がないんだもの。電気ポットの使い方すら知らないし……って、こんな時間! じゃ、行ってきます!」
「気をつけて。上司に嫌みを言われても負けないで」
「うん、頑張ってくる」

 玄関を出ると、駆け足で車に乗り込む。中古で買った軽はもうボロボロだ。(そういえば今度車検だったっけ。買い換えてもいいよなあ、クラピカもいるし)。クラピカもいるし、ですって。変な話だ。クラピカなんて、ついこの間まで赤の他人だった、得体の知れない男の子なのに。素性なんてひとつも知らない、ただ、彼がクラピカと名乗ったから、そう呼んでるだけ。わたしは機嫌よく、ステレオを付けた。ラジオの中ではDJが陽気に喋っている。





「え、これ? わたしに?」

 目の前に差し出されたのは花束だった。それも、高そうな花ばかり。わたしは受け取るのを躊躇して、クラピカの瞳を見つめた。すごく、穏やかな目。吸い込まれてしまいそう。

「いつもお世話になっている人には、花束をあげるといいと聞いたものだから」
「でも別に誕生日でも何かの記念日でもないし、そんな」
「もらってはくれないかな?」
「う、ううん、もらう。ありがとうクラピカ。すごく綺麗」

 納戸の奥に閉まってあった埃だらけの花瓶を洗い、花を納める。悠々と咲く花たちと、煤けた花瓶。なんだか、わたしたちには、お似合いのように感じた。満足してクラピカを見ると、彼は納戸から更に如雨露を持ち出してきていた。

「ちょっと」
「ん?」
「何しようとしてる?」
「花には、水をあげなくてはならないだろう」
「ちょ、ちょっと待って。クラピカ、如雨露はね、鉢植えのお花にしか使わないんだよ。こうして、花瓶に活けたときは、花瓶のお水を取り替えればいいの」
「なるほど。花なんて、育てたことがないからわからなかった。ナマエといると色々勉強になるよ。ありがとう」
(この場合、花を育ててるわけじゃないんたけど……)

 クラピカは、驚くほど幼稚な知識さえ持っていなかった。わたしが教えるまで、スチームアイロンどころか電子レンジの使い方も知らなかったのだ。しかしその一方で、彼は普通わたしたちが暮らしていく上で、知る由もない知識をよく心得ていた。危ないからとか何とか言ってわたしに護身術を教えてくれたり、はたまたマニュアル車のエンジンの仕組みについて朗々と説明してくれたりしたのは彼だ。
 それに、テレビで時に出てくる遠い大陸のことを、まるで住んでいたことがあるかのように詳細に話してくれることがあった。わたしはこの国から出たことがなく、そういった知識は乏しいが、それでも彼が詳細を知るその国は、明らかに一般人の入国を受け付けていないところである、ということはわかった。

「クラピカは、なんでも知っているのに、なんにも知らないんだね」
「ナマエの方がよっぽど物知りだよ」
「ほんとに、そう。あなたって、ドリアとグラタンの違いもわからないんだから」
「……そのくらいは、わかるよ」

 彼は穏やかに笑う。深い瞳。吸い込まれそうになる。





 今日もまた、雨だ。ここのところずっと天気が悪くて嫌になる。髪の毛はうねるし、洗濯物は乾かない。しかも会社に行く道が混むからいつもより早く家を出なきゃならないのだ。

「だから、ちょっと早いけど、わたしもう行くから。帰りもいつもより少し遅いと思うけど……。それじゃお昼はチンして食べてね。あと……」
「ナマエ」
「な、なに? クラピカ」

 クラピカは、いつもと同じ、凪いだ目をしていた。なのに、何故か、泣きそうになる。

「今日は私が運転しよう。送っていくよ。帰りも迎えに行く」
「あ、ありがたいけど……急にどうしたの?」
「別に、大した理由はないんだよ。ほら、遅れそうなんだろう? キーを貸して」

 彼はそう言ってわたしの掌からするりとキーを抜き取った。こんなの、初めてだ。クラピカと一緒に外出するなんてことは、彼がここに来て以来、初めてだった。(外出といってもただの車での送り迎えなのだけれど)。

「ねえ、本当に、どうしたの?」
「……」
「ねえ、クラピカ、」
「……初めて、ナマエに出会った日を思い出していた。」

 ぽつりと、クラピカは口を開いた。パタン、パタン、ワイパーの音が規則的に視界を遮断する。

「ナマエに拾われなければ、きっと私は死んでいた」

 案の定、道路はいつもの何倍も混んでいた。歩道から溢れる色とりどりの傘が、目を奪う。きれい、ぼうっとそんなことを考えた。あの日、ぼろぼろになって倒れていたクラピカを見つけたあと、なんとか一人で部屋まで連れて行った。運んでいる間、クラピカの体は信じられないほど熱く、帰って熱を計ってみれば40度近い熱を放っていたのだった。彼を着替えさせ、体を拭いている間、クラピカは一度だけ目を覚まし、『雨が、』と呟いた。『雨が、降っていた』とだけ。





 会社の玄関を出ると、見覚えのある軽自動車が止まっているのが見えた。手を振ると、見覚えのある綺麗な金髪が揺れるのが見えた。

「本当に助かった。まさかこんなに土砂降りになるなんて思わなかったよ」
「電車は止まってしまっているみたいだからね。道路も、どこもかしこも渋滞だよ」
「わたし、こんな土砂降りの中運転する自信ないな。クラピカがいなかったら、きっと事故を起こしてた」
「そうかもしれない。ナマエの運転はきっと雑だろうから」
「悪かったね、雑で」

 クラピカの運転は、実に丁寧だった。もちろん、わたしのように急にブレーキを深く踏んで腰を痛めたりすることはない。ウィンカーを出すのは曲がるきっかり3秒前だし、道を譲ってくれた車にはファ、と挨拶を忘れない。

「いや、大らかなことはいいことだよ」
「何だか、馬鹿にしてない?」
「していないとも。ナマエの大らかさには私も助けられているよ。しかし、フロントガラスの水はけがいやに悪いようだな。このワイパーを最後に点検したのはいつだ?」
「あーもう、そういうとこだよ、クラピカ」

 クラピカはくつくつと笑う。その後彼が何か言ったようだったが、残念ながら雨の音に遮断されて、聞こえなかった。聞き返すと、クラピカは少し首を傾げ、右折の合図をゆるゆると出しながらこう言った。「いや、」

「つくづくと、思ったのだよ。ナマエでよかったと」
「クラピカ?」
「ああ、私はなんと運がいい」

 クラピカは真っ直ぐ前を向いていて、助手席からは彼の瞳を覗くことができない。





「……いない。」

 それは、頭のどこかで予想していたことでもあった。洗いかけの食器、生乾きのバスタオル、においの染み着いた枕。どれをとっても、彼のいた証拠にしかならなかった。きっとわたしたちは、二度と会うことはないだろう。こんなたくさんの残り香も、思い出も、関係のないくらい遠いところに、彼が行ってしまったということだからだ。ふとテーブルを見ると、そこには彼のお気に入りだったカップが置き去りにされていた。代わりに、わたしのカップが見当たらない。やだなぁ。わたしは少し笑って、ひとつため息を落とした。これからコーヒーを飲む度に、彼を思い出さなきゃならなくなる。コーヒーを飲む度に、涙を流さなくちゃならなくなる。


砂漠
(130804)