真夜中の海岸線。夜、海に一人で行くと幽霊がいて、海に連れ去られてしまうよ、とよく祖母に言われたものだ。だが、実際来てみればそこにいたのは幽霊でもなんでもなく、人間だった。男の、人だった。

「誰?」

 その人は抑揚なく、まるで科白を読み上げているかのように言った。そうして、長い髪を掻き上げたため、白くて綺麗な顔が露わになる。(幽霊みたい。)わたしは思う。(幽霊、みたい。)

「誰、って聞いてるんだけど。」
「わ、わたし……、」

 何と答えるか、少し迷う。この辺りの者なら、『丘の屋敷の者だけど、』とでも言えば事足りる。 事足りるどころか、きっと必要以上にへりくだったり、あるいは軽々しく話しかけてきたことを詫びるかもしれない。 ただ、何となくこの人は、そんなこととは全く関係ないような、そんなことには全く捕らわれないような人である気がした。まるで、この世から超越しているような。 (だから、幽霊みたいなんだ。)
 わたしは迷った結果、躊躇いながら「ナマエです。」とだけ言った。自己紹介としては明らかに情報が足りていないのだけれど、彼はあまり気にしていないようで、「なるほど」と短く返した。 海のイヤな臭いが、ツンと鼻を刺激する。わたしはこの臭いが大嫌いだ。街中この臭いで溢れているこの街が、大嫌いだ。

「あなたは?」
「オレはイルミ」

 彼もまた、自己紹介にしては随分舌っ足らずな情報を投げて寄越した。しかしそれはわたしにとっても大したことじゃない。沈黙、波の寄せる音が間隙を埋める。

「あなたは……」
「何?」
「あなたは、幽霊じゃないの?」
「……オレが幽霊だって?」

 イルミは、思案するように空を仰ぎ、顎に手をやった。流れるような動作は、本当に幽霊みたいだ。 幽霊だったらいいのに、と思う。本当に、彼が幽霊なら。(幽霊だったらいいのに。)

「まあ、幽霊だと思ってもらっても問題はないけど。でも、そうかどうかと聞かれたら、違うと答える」
「そう……。そうだよね。わかってた。でも、もしあなたが幽霊だったらいいのに、と思って」
「オレが幽霊だったら、都合の良いことでもあるんだ。まあどうでもいいけど。」

 イルミという人は、喋るときに一度もこちらを見なかった。 イルミの視線に合わせてそちらを見てみたが、ただ木々があり、民家があり、稜線が見える何の変哲もない風景が広がっているだけだ。ただイルミはそちらを見続ける。まるで、何かを待っているようだと思った。そしてその何かが来る前に、わたしは去った方がいいのだろうとも。

「ねえ、幽霊のフリをしてくれない?」
「オレが? どうして?」
「ここに人が立っているのが見えたとき、本当に幽霊かと思ったんだよ。そうしてやってきたらあなただったから、ガッカリした。だから代わりをして欲しいの。ちょうどあなた、幽霊みたいな見た目をしてるから。」
「幽霊のフリって、何」

 彼は呆れたように、かぶりを振った。それはわたしが彼に出会って初めて見た人間らしい動きだった。わたしはしゃがみ込み、空を見た。月が嫌味なほど明るい。明るい月は嫌いだ。でも、暗い月はもっと嫌いだ。足下に、割れた瓶がいくつも転がっている。拾おうとすると、イルミが「怪我をするよ」と言った。

「幽霊のフリと言ってもね、することはそんなにないよ。特にあなたは見た目が幽霊然としているし。」
「幽霊然とね」
「あとはそう。今のようにそこに立っていて。そして空を見る。わたしが近づいても、空を見たまま。」

 わたしが彼を見ずに、足下の瓶をいじくりながら話していることにも、彼は気に留めていないようだった。割れた瓶たちの中から、1つだけ割れていないものを見つける。 きれい、とわたしは思う。薄いグリーンの硝子瓶は、洗えばまだ使えそうである。 手で砂を簡単に払い、月の明かりに照らしてみると、やはりあまり傷もない、生まれたばかりなのね、と漠然と思う。

「それだけ?」
「そうしてね、」

 硝子瓶を取り、立ち上がる。するとイルミは初めてこちらを見た。

「わたしを殺すの。」

 イルミの瞳の奥が見える。まるで月の光のような、まるで少女のような瞳。わたしはこの人に殺されたいと思っている。でもわたしはわかっていた。この人はきっと、わたしを殺してはくれない。月はそんなに優しくないのだ。

「いいよ、殺してあげる。」

 わたしは目を閉じる。







 目を開けると、そこは嫌と言うほど見慣れた自分の部屋だった。ご丁寧に、自分の着た覚えのない寝間着まで着ている。ベッド脇のサイドボードの上には、割れた硝子瓶が散らばっていた。綺麗な薄いグリーン。手で触れようとすると、ふと頭の奥でまた『怪我をするよ』と言われた気がして、手を引っ込めた。わたしは目を再び閉じる。そうしてそっと、硝子瓶に閉じ込める。いつでも眺められるように、いつまでも触れられないように。

硝子瓶に閉じ込めた恋心
(131223)
(title by 夢見月*