わたしは、いつからここにいたのだろう? なんだか、ずっと昔からここにいる気がする。でも、ここがどこだかわからないのだ。

 周囲はどこか霞がかっていて、何も感知できない。あたたかくもない、つめたくもない、強いて言えばどこか心地よい。すべての感覚が、磨り硝子のように鈍く、きらきらとしていた。

 もしかしたらわたしは眠っているのかも知れない、と思う。夢の中は思っていたよりもぼんやりとしているらしい。

 夢とわかれば、と横たわっていた体を起こした。体を起こして初めて、自分が横たわっていたことに気付く。体はふわふわとして軽く、まるで体重なんてないみたいだ。わたしは気分がよくなって、スキップするみたいにとにかく進んだ。

 どこからか、コツ、コツ、と音が聞こえてくる気がする。今まではずっと無音だったのに、と思ったけれど、今まで本当に無音だったのかまるで思い出せなかった。それどころか、進み始めてからどのくらい経ったのか、夢の世界に来てからどのくらい経ったのか、本当に音は今鳴っているのか? 今聞こえているこれは本当に音なのか? 何もかもがわからなくなっていることに気付く。どう考えても思考能力が落ちているな、と妙に冷静な頭で考える。

 夢とは斯くも曖昧なものか、と考えているうち、いつの間にか音は耳元にまで迫ってきているようだった。ふと振り返ると、と言っても自分でもわかるほど酷く緩慢な動作だったが、とにかく音のする方に視線をやってみると、そこには見知った顔、厭らしい笑顔を浮かべた奇術師が佇んでいたのだった。

「やあ、ナマエじゃないか♦」
「……夢とは願望充足の場とは、よく言ったものだね」
「夢?」
「昔の人の言葉」

 わたしが薄らと微笑むと、ヒソカは目を見開く。これはヒソカが少し困ったときに見せる表情なのだと、気付いたのはいつだったろうか。

(そう、そうだ。あれは確か6月で……)
 冷たく長い雨がまるで針金のように、わたしたちを突き刺す、ある休日だった。
 わたしとヒソカは多くの場合仕事上のパートナーだったのだけれど、この日は珍しく二人の間に何の関係性もなく、強いて言うなら時間を共有するためにただ集まった、ただの二人だった。
 そして私はふと思った。死ぬなら今がいい。殺されるなら、ヒソカがいい。

「あのね。」
「なんだい♦」
「わたしがもしいつかどうしようもないような大きな失敗をしたら、」
「うん。」
「ヒソカがわたしを殺してね」
「なぜ?♠」

 ヒソカはただそう尋ねて、静かにコーヒーを一口すすった。予想と違ったヒソカの応えに、わたしも思わずコーヒーを口にする。

「なぜって……ヒソカなら、『喜んで』とか『今がいい?』とか言いそうなのに」
「そう言われても、ボクには君を殺す理由がないから♣」

 ヒソカは少し変な笑い方をした。言葉にするなら、そう、困ったように。困ったように、ヒソカは笑ったのだった。

「キミには殺す価値がない。殺したってボクには何の感情もわかないよ。青い果実ですらない♠」
「わたしが相手にならないほど弱いとおっしゃりたいわけね」
「それもあるね♥」

 くつくつと、ヒソカは喉を鳴らした。わたしもつられて微笑む。きっと彼を困らせてしまったのだろうと、すぐにわかったのだった。
 今わたしの頭はひどく靄がかっていて、鮮明に思い出すことは叶わないのだけれど、幽かに浮かぶその時の表情と、今目の前にいるヒソカの表情はとても似ている気がした。

「わたし、あなたを困らせることしかできないみたい」

 わたしが呟くようにそう言うと、ヒソカは一層笑みを深くした。一層、困ったように。気付けば周りの景色はいつのまにやら真っ白で、わたしの足は動かなくなっていた。あれ、おかしいなぁなんて思いつつも、無理して足を動かそうという気にもならない。

「どうしてそう思うのかな♣」
「わからない……わからないけど、ヒソカが困っているみたいだから」
「ボクが、困ってる?♠」

 ヒソカが隣に座って初めて、私は自分が腰を下ろしていることに気付いた。体が重く、足なんて少しも動かせない。周りは煙のように濃い霧に覆われていて、ヒソカしか見えない状況だ。もやもやと、捉え所のない煙が、わたしたち二人を包んでいる。

「ボクは、困ってなんかいないよ♥ もっと、別の……」
「とても困っているように見えるのに」
「ねえ、ここはナマエの夢なんだろう?」

 なら、ボクが困るわけないじゃないか。ヒソカは踊るように立ち上がり、私の手を引き、走り始めた。さっきまで動かなかった足が嘘のように、速く走れる。こんなに速く走ったのは、初めてだ。でも、わたしには少し速すぎる。何だか目眩がして、急に眠たくなってきた。わたしの前を走るヒソカの、顔は見えなかった。足が再び重くなってきて、ヒソカに追いつくのがやっとだ。ヒュンヒュンと風を切る音が私の鼓膜を支配して、他に何も考えられない。

「夢だから、なんでもできる。夢だから、なんだって、叶えられるよ♦」

 そうは言うけれど、わたしには今したいことなんて全然思いつかない。強いて言えば、このままずっと、ヒソカと手を握って走り続けられたら、そう思った。(多分、無理でしょうけど。)でもなぜか、そんな考えが頭に浮かぶ。

「何かしたいことはないの?♣」
「……ヒソカと一緒にいたいよ」
「それは今叶ってるじゃないか♦」
「違うの。これから、ずっと、ヒソカといたい。ずっと」

 そんなことは、願ったって絶対に無理なのだ。根拠はないのに、なぜか確信を持ってそう思った。その証拠に、ヒソカはまた困ったように笑っていた。悲しいけれど、ヒソカが困るだなんて、わたしが言っていることの不可能性を表しているとしか思えない。

「……無理なんだね」
「いいや、無理じゃない♠」
「嘘吐かないでよ」
「……キミには、嘘なんて吐かないよ♣」

 ヒソカは少しずつ走るスピードを緩め、わたしを気遣うように顔をのぞき込んだ。わたしもそれに合わせて少しずつ速度を遅くしていき、しまいには二人ともほとんど歩いているような状態となった。

「ねえ、ヒソカ、あなた何か変だよ」
「変?」
「いつもこんなに優しくないでしょ」
「酷いな。ボクはいつだってキミには優しい♦」
「そうだっけ。……でも、本当に変な感じ。ヒソカ、わたし、幸せだよ」
「幸せ?」

 幸せ。口に出すだけで、少しこそばゆい。でも、

「なんだか急に眠たいな」
「そう」
「少しだけ、眠ってもいい?」
「ああ、少し眠ろう。そうして、また会おう、ナマエ」
「うん、また会おう、またね、ヒソカ」






「さようなら、ナマエ」

 冷たくなったナマエの体を見つめる。ボクが帰ったとき、ナマエは既に虫の息で、部屋中に血が飛び散っていた。この辺りは治安の良い地域とは言えず、こういったことはいつだって覚悟していたつもりだった。ナマエは、逝く直前、何を思っただろう。願わくば、幸福な夢を。願わくば、ボクが傍に。

かみさまもしらない
(141202)
(title by 羊狩り