こういう日が稀にある。いつもは決まって朝寝坊・朝食抜き・寝癖のトリプルパンチな私だけれど、今朝はいつもの1時間半も前に理由もなく目が覚めてしまい、暇を持て余して早朝の学校にやって来たのだ。教室に入ると既にちらほらと人がいて、勉強する人、朝ごはんを食べる人、お喋りする人、それぞれだ。
 適当に挨拶を交わし、自席につくと、見慣れぬ人影に気付いた。気付いたと言っても、これは気付かぬわけにはいかない。何しろその人影は私の席のすぐ前にあったからであって、気付いたと言うより気付かざるを得なかったと言うべきだろう。

「あの、その席……」
「あ、おはよー。ミョウジちゃん」

 声を掛けると半兵衛先輩は事もなげに振り返り、予想通り甘ったるい笑顔をこちらに投げて寄越した。

「珍しいじゃん、ミョウジちゃんがこんなに早く来るなんてさ。今日は雪が降るかなぁ。それとも、雹かな」
「うるさいな。こういう日だってたまにはあるんです。ていうか先輩こそ、どうして2年の教室にいるんですか」
「いやー、懐かしいなぁ。俺も去年ここのクラスだったんだよー。そうそう、あそこの壁紙、前からはがれててさぁ」
「私の話、聞いてます?」
「この教室、保健室が近いから便利だよねぇ。授業はじまる直前まで寝てられるもんね」
「……私の話、聞いてます?」

 半兵衛先輩はぐーっと伸びをして、すぐに立ち上がった。私はどこか、名残惜しく、彼を見上げる形になる。時計を見ればもう1限目の時間が迫っているし、自由登校期間に入っているはずの3年生がわざわざ制服を着てこんなところにいるということは、何かの用事のついでということだろうし、先輩が居座っていた机の主である佐藤君が教室の入り口付近で戸惑っているのが見えるし……。何から何まで、先輩がもうここを去ってしまうのは当然の話だ。
 なのに私は、その明々白々を飲み込むことができなかった。なぜかこみ上げる、吐き気にも似た涙を抑えながら、遅れて私も立ち上がる。ちょうど教室を出る所だった半兵衛先輩は、物音に気付いて振り返った。「、せ、先輩、待って」

「あれれ、授業始まっちゃうよ」
「い、いいんです」
「折角今日は早く来たのに?」
「……先輩こそ」

 廊下に出てすぐに、予鈴のチャイムが鳴り響いた。遠くから先生が、「教室入れー」と方々に声を掛けているのが聞こえる。

「先輩こそ、何かあって来たんじゃないんですか? わざわざうちのクラスに来るなんて……。何か用事がなかったらこんな所に来ないんじゃないんですか? 私、今日早く起きれたのはたまたまですけど……。教室に来たら先輩がいたから、ああ、私そのために今日だけ早く起きれたのかな、とか思って……」
「ミョウジちゃんってさぁ、たまに超詩人だよねぇ」
「……半兵衛先輩に、会えたのが、嬉しかったから」

 先輩は私を、部活ではいつも妹のように可愛がってくれた。いつしか私は妹じゃ我慢できなくなっていたけれど、必死に思いを押し殺して、よき妹として振る舞ってきた。部活そのものは正直あんまり好きじゃなかったんだけど、先輩に会うためだけに毎日通っていた。それなのに気付けば先輩はあっという間に部活を引退し、もう卒業を目前に控えている。できることなら、今、この場で伝えてしまいたい。だけど先輩の目に映る私は未だに妹だ。如何してこの思いを告げられようか。

「ミョウジちゃん。俺はね、今日きみにさよならを言いに来たんだ」
「え……」
「本当はミョウジちゃんの顔見て、やっぱやめよーって思ったんだけどさぁ、ミョウジちゃんが引き止めるんだもん」

 相変わらず甘ったるい笑顔。私はどこを見て良いかわからなくて、慌てて目を逸らして先輩のネクタイの結び目を見つめた。

「さよなら、って……」
「ん。俺さ、県外の大学行くんだ。本当は地元に残ろうと思ってたんだけど……落ちちゃってさ。まぁ、そこも行きたい大学だったからいいんだけどね」
「県外の……」
「結構遠いからさー。だから多分、これでさよならなわけ」

 ちょうど良く、もう一度チャイムが鳴り、授業が始まったようだった。半兵衛先輩はあっけらかんと、「じゃ、そういうことでねー」と言って、職員室へ向かって歩き始める。私は掛ける言葉も見つからずに、ただ茫然と突っ立っていた。今日は折角早く来たのにな、遅刻記録はストップできなかったな、なんてぼんやり考える。先輩を追いかけることも、諦めて教室に入ることもできず、ただ先輩を見送っていた。
 先輩は特に振り返ることもなくまっすぐ歩いていたのだが、角を曲がる直前、突然に立ち止まって、こちらを見た。先輩の声は大きな声じゃなかったけれど、廊下はしんとしていて、私の耳に届くには十分だった。

「ごめん。俺、たぶんミョウジちゃんが好きだったんだ。妹みたいに思ってたけど、気付いたらそれ以上になってたよ。だから今日、俺はこの街を出て行くってことをミョウジちゃんに伝えに来たんだ。きちんと、さようならをしなくちゃって。」

 先輩はそれだけ言って、ひょいと角を曲がって行った。ああ、ほんとうにこれで、さよならなんだ。目をこする。もうきっと一生会うことがないだろう、好きだった人を想って、目を閉じた。

卒業
(160217)