Toyland, Toyland.
 私が子どもの頃、隣には必ず、幼なじみの千斗がいた。
 千はとても歌が上手で、よく子守歌を歌ってくれたんだ。
Toyland, Toyland.
 どこにもない、玩具の国の歌。千が作った、魔法の国の歌だ。
 そこには、私たちを傷つける物は一つもない。
 千が作った魔法だけがある。そんな歌。

「これ、あげるよ」

 あるとき、千が、小さなキーホルダーをくれた。

「千が連れてきたの?」
「そう。あなたの仲間にしてって」

 千は柔らかに笑って言った。キーホルダーはお世辞にも質が良いとは言えないような代物で、どこかのお土産ものなのだろう、プラスチックの猫が温泉のマークを掲げている。小さな土産物屋で、キーホルダーを吟味する千の姿が目に浮かぶようだ。

「うん、いいよ。仲間にしてあげよう。私たちの、国にようこそ」

Toyland, Toyland.
 確かその日も、千は子守歌を歌ってくれた。



 中学に入学しても、私たちの関係は変わらなかった。それが大きく変化したのは、高校受験を控える、中学3年生になった頃だ。

「え……千もこっちの高校かと思ってた……」
「君は君の好きな所に行けばいいよ。それが僕の進路とは無関係、というただそれだけのこと、でしょ?」
「そんな……」
「僕、行くね」
「千……」

 ただでさえ、ここのところ千が変わってしまったような気がして、言い知れない物寂しさを抱いていた。少し前、中1の終わり、ぐんと伸びた身長と、低くなった声。周囲にいる女子たちは、……いや、教師や保護者も含めて、かもしれないが、千の顔を初めて見たかのような素振りで騒ぎ立てた。千はそれを拒むことも、受け入れることもなく、淡々と、『モテることは別に悪いことじゃないでしょ』と言ってのけたのだった。千が、モテる? 異性として? そういう視点で千のことを見たことがなかったので、私は大層混乱した。そんなの、私が知ってる千じゃない。私が知ってる千は、歌を歌ってくれて、くしゃくしゃの折り鶴をくれて、まるで玩具みたいに生活感がなく、おとぎ話の住人みたいで、……と考えて、私はようやく気付いたのだ。

 千はもう、かの玩具の国にはいないのだと。ここにいるのは、とっくに私だけなのだと。



 あれから、随分と時が経った。結局、卒業後は別の高校に入り、全く連絡を取り合わなくなった。友達の友達の友達の友達を介して聞くことには、千がバンドを始めたらしいということは耳に入ってきた。あの頃、周りに合わせることを知らず、いつでも孤高の王様のように振る舞っていたあの千が、同性の友達は一人もおらず、休んだ日の宿題を尋ねる相手が私しかいなかったあの千が、バンド? とはじめは訝しんだものだが。よく考えれば不思議なことではない。私が知っている千はあの頃の千であり、玩具の国に住んでいた頃の千だ。それ以降の千のことは、私は知らないのだ。

「……ライブを?」
「そうそう、ナマエちゃん、あの千くんと同中らしいじゃん。だから、ナマエちゃん通せばチケット取れたりしないかな〜なんて! 超人気で、チケット中々取れないんだよ。お願いっ!」
「そ、そう言われても……。千とはもう……」
「ダメ元でいいから〜!」

 高校のクラスメイトに、そう頼まれた時は驚いた。私の知らない間に、どうやら千は人気者になってしまっているらしかった。
 特段仲が良いわけでもないクラスメイトの頼みを無下にすることも出来ず、まあダメ元ならと引き受けることにした。家に帰った私は仕方なく電話帳を引っ張り出す。
 あの頃は、よく家の電話でやりとりをしていた。帰りの会が終わって、掃除も適当に終わらせたら、走って家に帰ってすぐに千の家に電話をするのだ。『もしもし。こんにちは。ミョウジナマエです。千斗君いますか』そう言うだけで、千はたちまち自転車を漕いでやってきて、私の部屋に来てくれた。別に、特別なことを何かするわけじゃないけど。歌を歌ったり、塗り絵をしたり、二人で物語を作ったりして、そこには二人の国があった。

 電話帳をめくると、すぐに見つける、母が書いた『折笠さん』の文字。すぐ横に、並べて書かれた数字の羅列には、奇妙な懐かしさがあった。あの頃、互いの家の電話番号は当然のように空で言えた。頭のどこかに、こびりついているのだ。二人の国への、パスポートが。

 早速、電話をしてみようと、スマホで電話画面を開く。でもすぐに閉じた。
 ……家電から、電話してみよう。
 些細なことだ。些細なことだけど。あの頃と同じように、してみたら。もしかしたら、あの頃と同じように、おとぎ話の中にある玩具の国に二人で行けるかも、そう思ったのだ。

「はい、折笠です」

 呼び出し音が鳴って、すぐに女の人が出た。聞き覚えのある声、千のお母さんだ。

「お久しぶりです。ミョウジナマエです。子どもの頃、お世話になりました」
「あら! ナマエちゃん、久しぶりねー。電話くれるなんて、中学校以来じゃない? もしかして、千斗に用事?」
「あ、はい。携帯の番号知らなくて……」
「何かあの子、思春期って感じで取っつきにくくなっちゃったもんねぇ。ちょっと待ってね、今部屋にいるから。……千ー!」

 少し沈黙があって、千のお母さんが歩いたりドアを開けたりする物音が聞こえる。自分でも驚くくらい、心臓がばくばく言っている。千と話すのは、何年ぶりだろう。中学の卒業式で、二・三言、それも表面的でどうでもいい社交辞令を交わして、それが最後だった気がする。

「……もしもし?」

 ドクン!
 と心臓が跳ね上がる。
 低い、知らない、男の人の、声だ。でも、どこかに、魔法みたいな鈴の音や、あの頃の千の歌声も混ざったような、懐かしい、不思議な声だった。

「あ……久しぶり、千……」
「うん。そうね。で、何?」

 俄に高揚しかけていた私の心臓は、千の冷たい声で一気に冷静さを取り戻すようだった。冷たい水をかけられたような心地だ。涙が出そうだった。何の涙かもわからない。自分でもわからない何かを振り絞って、枯れそうになる喉をこじ開け、声を絞り出した。

「あ、えっと……。高校の友達から、頼まれて、千がバンドやってるって、その、ライブの……」
「ああ、そういうこと」
「ダメ元で、って……」

 受話器の向こうで、千がため息を吐いたのが微かに聞こえた。私は、自分がどうしてこんなにも泣きそうなのかもわからない。子どもの頃から変わらない自分の部屋で、馬鹿みたいに電話の子機を握りしめてる。ここには、あの頃と何も変わらず、ぬいぐるみもあるし、塗り絵もあるし、あの猫のキーホルダーも、折り紙も、小さなキーボードもある。でも、千だけがいない。いくらパスポートがあったって。千がいないと、おとぎ話は、始まらない。

「……申し訳ないけど。チケットはあげられない」
「あ、そうだよね、人気らしいもんね。無理言っちゃってごめんね」
「違う。そうじゃない。君の友達の分はいいよ。でも、ナマエの分は用意できない」
「……え?」
「友達、何枚? 用意するよ。……でも、君だけは来ちゃダメ。見に来ないで」

 一瞬、息が止まった。でもすぐに息を吐き出した。千に言われたことはもちろんとても寂しい、でも、

「君には会っちゃダメなんだよ。君は僕を子どもにしてしまう。僕を玩具の国へ連れてってしまうんだよ。僕はそこから戻れなくなる。ナマエといたら、僕はダメになるんだよ」

 千の方が、何倍も寂しそうな声で言うんだもの。それ以上、私は何も言うことができず、ただ静かに終話ボタンを押した。



 あれからまた、もっとたくさんの時が経った。予定調和のように平凡に、大学生になり、いくつかの恋愛をしてから、実家を出て、就職し、一人ぼっちになった。
 今日は、愛想笑いばかりが鍛えられるような、つまらない飲み会を途中で抜けてきた。大丈夫、月曜の朝いちばんに、眉を寄せて、困った顔で、申し訳なさそうに、『すみません、母が体調不良と連絡があって……』と嘘をつくのはとても簡単だ。そんな、実にありきたりで、凡庸で、つまらない、よくある大人になってしまった。

 新宿東口、信号を渡って地下に入ろうとすると、背後から、嫌になるほど聞き覚えのある声が、聞こえてくる。

『それでは、聞いてください……”Dis One"』

 大きな画面を見なくたって、振り返らなくたって、誰の声だかすぐにわかる。
 千、あなたは、私といるとダメになると言ったけど。私は、あなたを見ないことなんてできない。遠くから、あなたを見ざるを得ない。私はあなたを見るとダメになるのに、あなたは私のせいでダメにはなってくれないのね。


 地元の駅に降りると、都会の喧騒とはうってかわって、静かすぎる夜闇が私を襲った。新宿からたった40分下っただけで、こんなにも空気が変わってしまうものか。実家を出て、独り暮らしに選んだ土地は、商店街がありいつも賑やかな所だった。とにかく、賑やかで、栄えていて、人が常にいるような、場所を選んだ。そうでないと、気を抜けば、心の中の国に引きこもってしまいたくなる。だというのに、玩具の国の魔法は、もうないのだ。そんな事実を受け入れられずにいる私には、静けさは酷く残酷だった。

「お母、さん。急、だけ、ど、今日、帰る、か、ら。カギ、開けて、おい、て、ね……と」

 ふらっと思い付きで地元に戻ってきてしまったので、家に入るために母にラビチャを入れる。あとは、既読が着くまでどこかで適当に時間を潰す必要がある。
 深夜まで空いている喫茶店や、24時間営業のファミレスは、気が乗らなかった。自身を切り裂くとわかりつつも、静けさに身を委ねたい、そんな自虐的な気分だった。

 結局、家の近くの小さな公園を選んだ。ブランコに腰かけると、十数年ぶりの揺れ心地に少し心が踊る。ゆっくりと揺られながら、目を閉じた。お腹一杯に空気を吸い込むと、どこかの家のお風呂の匂いが微かに香る。
 こうしていると、まだ、あの玩具の国に戻れるような気がした。千が歌う。歌を聞いて私が物語を作る。それに合わせてまた千が新しい歌を歌う。ぬいぐるみも、温泉の猫も、折り紙も、塗り絵も、クッションも、みんなみんな千の歌を目を閉じて聞いている。そこには魔法があって、二人のおとぎ話があって、歌があった。

 ……目を開ける。本当は、わかってるんだ。こんな風に、大人になっても、あの頃の魔法をよすがに生きているなんて、情けない生き物、地球上どこを探したって私だけだろう。

 大丈夫。もう大丈夫。
 そう自分に言い聞かせる。もう、私はいい大人だ。つまらない上司の話に上手に愛想笑いをすることができるし、セクハラ発言を何事もなかったかのようにスルーすることもできるし、空気を壊さずに抜け出すこともできるし、後からそれを自分でフォローすることもできる。立派な大人だ。
 もう、捨ててしまおう。二度と入ることのできない玩具の国なんて、いっそ捨ててしまおうと、未練がましく流れる涙を、手の甲で拭う。



「……こんなところで、何してるの、ナマエ」
「え?! ……う、うそ……。千……! 千こそ、どうしたの……?」

 目を擦る。いくら目を擦っても、そこにいるのは千だった。

「どうしたのって……。久々に地元に帰ってきたら、通りがかった公園に幼なじみがいたので声をかけました」
「あ、そうか……」

 そういえば、この公園を右に曲がった所が千の家だった。無意識に千の家に近いところを選んでしまっていたのかも知れない。本当に、未練がましいな。一周回って少し笑えてきてしまう。

「ナマエ、笑っているの?」
「ごめん、ごめん。久しぶりに会えて嬉しかったからさ。……もう、千とは会えないんじゃないかって、思ってたから」
「あのね、ナマエ。ちょっと話してもいい?」

 そう言うと、千は私がいいと言う前に隣のブランコに座った。

「あーコレ、超久しぶり。アハハ、ちょっと楽しい」

 まるで、先程の私の感傷をなぞってくれいているみたいで、少し、嬉しく感じてしまう。そんな様子に気づいたのかそうでないのか、千は大きくブランコを漕ぎ、子どもみたいにはしゃいで見せた。

「ナマエ、泣きそうなときに笑っちゃうの、昔からの妙な癖だね」

 ブランコを漕ぎ、前を向いたまま千がそう言った。表情を見ようとしたけど、まるで見せまいとするかのように、千は、前に、後ろに、と大きく何度もスウィングしていた。

「……千は、元気だった?」
「随分今更な質問だよね。うん、まあ、元気だったよ。色々あったけどね。最近、ようやく友達が何人かできたよ」
「そう」
「ナマエは? ……ナマエは、元気だったの?」
「私は……」

 私は、元気だったのか、元気じゃなかったのか。果たして何と答えるのが良いのか分からない。所在なく、私もブランコを少し揺らした。思い出の中のブランコよりも、高さは低く、鎖は短く、速度は速く感じる。あの頃は、自分の力で漕ぎだして、思う通りに動くブランコが大好きだった。でも今は全然違う。少し漕ぐだけで、振り落とされてしまいそうだ。

「私は少し……寂しかったよ」
「……そう」
「千がどんどん前に進むのを、遠くから見てたよ」
「僕がいる場所が変わるわけじゃないのにね」
「千がどんどん進んで行って、どんどん手が届かなくなっちゃうから、私はお守りみたいに思い出に縋って生きているんだ。……千のせいにするのは、とんだ責任転嫁だって、自分でも分かってるけどさ」

 話しながら、私は何一人で語ってるんだろうと情けなくなる。しかも、自分の矮小さから目を背けて、全てを千になすりつけようとしているなんて、情けないの上塗りだ。私は勝手にいたたまれなくなって、スマホを取り出した。お母さん、まだ既読付けてくれないの。

「ねえそれ……もしかして、子どもの頃僕があげたキーホルダー?」

 ハッとして、すぐにスマホを隠した。恥ずかしい。顔が熱くなる。子どもの頃にもらった、ちゃちなお土産物を、大人になった今でも大事に身につけているなんて、幼稚で、当てつけがましく、依存的だと思われても仕方がない。

「……こんなの、まだ大事に持ってるなんて、馬鹿みたいって思ったでしょ」
「どうして。すごく嬉しいよ。もっと良く見せて」
「千は過去を捨てて、どんどん進んでいくことができる人でしょ。でも、私は過去に縋りながら生きていく情けない生き物なの。だから、千にこれを見せるのは、他の人に見せることの100倍くらい、恥ずかしくて、自分の馬鹿さ加減を思い知らされる」
「でも僕は、過去を捨てる人なんて、そんな格好いいもんじゃないよ。本当に過去に興味がなかったら、地元にも帰ってこないし、よしんば見かけたとしてもここにいる君に声をかけないし、ブランコに乗ってはしゃいだりもしない」

 黙って微笑みながら、千は手のひらを差し出した。仄かな体温を感じるそれに、一瞬たじろぐ。血の通った千の手が、私の中から無理矢理にも郷愁を引っ張りだそうとしている、ようにすら感じる。
 おずおずとスマホに着いていたキーホルダーを外して渡すと、千は目をきらきらさせてそれを眺めた。公園の灯りは薄暗かったけど、千は持つ手の角度を変えながら、上から、横から、斜めから、キーホルダーを楽しそうに眺めた。

「この猫が付けてる腰布の所、昔は赤じゃなかった? ああ、すごいよ。年季が入って色がはげたんだね。でも温泉のマークはちゃんと残ってる。そうそう、思い出した。これ、珍しく家族で温泉旅行に行ったんだよ。それで、僕、ナマエしか友達がいないからさ、ナマエにだけお土産を買おうと思って。すっごい小さいお土産屋さんしかなかったんだけど、そこには沢山キーホルダーがあってさ。子どもの僕にとっては全部、宝物に見えた。だから選びきれなくて、お母さんに『どれあげたって同じなんだから、早く決めて!』って怒られたの」
「それをもらったとき、私すごく嬉しかった……」
「そう、僕も覚えてる。これをあげたら、ナマエは『仲間にしてあげよう。私たちの国にようこそ』って言ってくれたんだ。僕の方こそすごく嬉しかった。」

 私は、千を見上げる。千はいつの間にかブランコを降りて、私のすぐ横に立っていたのだ。

「ねえ、目を閉じて」
「え……」
「いいから」

 言われたとおり、瞼を下ろすと、頭を撫でられた。千の手だ。血が通っていて、暖かい。
……Toyland, Toyland……

「千、この歌って……」
「子守歌だよ。君のための。君が眠れないと言ったら、いつも歌ってあげてたでしょ」

 この人の歌は、あの頃からとても残酷だ。どんなにもがいても、もがいても、この歌に誘われれば、なす術なく安心してしまう。

「今、眠く、ないよ」

 閉じていた目を開く。僅かばかりの抵抗だった。
 今とめどなくこぼれ落ちる涙に、何と言い訳すればいいのかわからなかったから。傷ついていた自分に、かけてあげる言葉がみつからなかったから。

「眠たくなってくるはずだよ。この子守唄は君のために作った歌なんだから」
「……ずるい……。」
「え?」

 千は、私の言葉が予想外のように言って、私を撫でていた手を止めた。あんなにも繊細な歌を歌うのに、彼が私のかなしみを理解していないように見えることが、余計に寂しかった。
 だから、だからこそ私は、懇願するように、祈るように、彼を求めてしまうのだ。

「……ずるいよ、千。あなたはこうやって私の中で生き続けてる。忘れさせてくれないのに。あなたの中には私はいないのに。……ずるいよ」
「何言ってるの、ナマエ」
「あの時……。ライブに来ないでって……私といるとダメになるって……」
「……うん。そうね。それは本当にごめんね。……君といると、僕は孤独な王様に戻ってしまうんだよ。君だけがいればいいと思ってしまう。玩具の国に引きこもってしまう。未熟な僕は、そこから自力で這い戻れる自信がなかった」

 千は、本当に申し訳ないというような顔をした。私は今でも、どんな顔をしたらいいのかわからないままだ。

「でも、今は自信を持って大丈夫と言えるようになった。僕を現実に戻してくれる仲間がたくさんいるよ。……ねえ、だから、君は僕を魔法の国へ連れて行ってよ。君となら、ずっと眠っていられるよ。ずっと、玩具で遊んでいられるよ」

 千の唇から紡がれる言葉に、嬉しいと思ってしまう私と、寂しかった日々を忘れられない私が、ぶつかり合って、ぐちゃぐちゃになって、汚い泥のように混ざり合う。その泥は、いつまで経っても消えることはなく、心の内側にべっとりと貼り付いていくかのようだった。

「だめだよ、千、ねえ。もっと、ずるいよ。そんな風に言われたら、許したくなっちゃうよ。あなたが私の世界から消えた、この10年間分の苦しみは、消えないのに。あなたのことを許してしまいそうになる」

 足を曲げて、少しだけブランコを漕いだ。揺れる世界はとても怖い。止まっている世界はもっと怖かった。怖いから、しがみついてしまう。でも、視界の中で街灯がゆらゆら揺れる度、本当に揺れているのは世界じゃなくて自分だと、本当に止まっていたのは世界じゃなく自分だったと気付くのだ。
 千はもう一度、隣のブランコに腰掛けた。静かに揺れながら、まっすぐ前を見ている。私もつられて前を見るけど、そこには何もない。ただ、世界があるだけだ。

「ごめんね、ナマエ、ごめんね。でも、君は僕を許さなくていい。これまでの苦しみも消えたりしない。ずっと君を蝕むだろう。でも、だから、歌や魔法や物語があるんだよ。その苦しみを、歌にするんだよ」

 その言葉は、まるで歌を歌っているかのようだった。メロディーもないし、リズムもない。なのに何故か、私は再び、あの二人の国に行けたような気がしたのだ。

「ねえ千、今、歌を歌っているの……?」
「……愛してるって、言ってる」

 ハッとして横を見ると、千はこっちを見ていた。前なんて、世界なんて、見ていない。私を見ていた。千は少し首を傾げて微笑んで、「これ、返すね」と猫のキーホルダーを差し出した。帰ってきたキーホルダーを、スマホに取り付ける。おかえりなさい、私たちの国へ。また遊ぼう、ここには玩具や魔法や物語、それにとびきりの歌があるよ。

「……これから、たくさん、歌が必要だよ。苦しくて許せない、許せないからもっと苦しいっていう歌と、たくさんの愛の歌をくれて嬉しいっていう歌と、色んな自分が混ざり合って泥になっちゃったっていう歌、子どもの私に戻りたいっていう歌、大人になれたらいいなって歌、あと、気紛れな幼馴染みに心を奪われる、って歌」
「……ナマエ、君は今、まるで歌を、歌っているみたいだよ」

 あの頃と同じ玩具の国はもうない。でも、もういいのだ。しがみつかなくても、大丈夫。私たちが居さえすれば、そこは二人の国となり、物語となり、歌となるのだ。

「愛してるって、言ってるの」

 スマホの着信音が鳴る。私は黙ってそれに出て、お母さんと話をする。千を見ると、当然みたいな顔をして、穏やかに笑っている。そのまま、私たちは何も言わずに別れ、家に帰った。次に、千に会うのは、いつになるのか、また10年後かもしれない。でも、私たちには魔法があるし、玩具があるし、それに物語も、パスポートも、キーホルダーも、全部あるから大丈夫だ。いつか、過去をみんな歌にするために。私たちにはまだ、玩具の国が必要だ。

Toyland
(200905)