今日ほど、ここに来ることに緊張したのは、初めて訪問した日、つまり私が彼の担当編集になったあの日、以来ではないだろうか。かん、かん、と安っぽい音を響かせて、安普請の外付け階段を上る。貧乏学生が住むような安アパートは、文壇期待の若手作家、夢野幻太郎先生が住むには明らかに不釣り合いだ。

「先生、お邪魔しますよー」

 以前インターホンを鳴らしたところ、鍵が開いていたら勝手に入っていいですよ、と言われたが、この部屋はいつでも鍵が開いていた。勝手知ったる人の家、挨拶もそこそこに、扉を開けて上がり込む。案の定、夢野先生は使い込んだ文机にむっつり顔で向かい、執筆しているのかしていないのか、原稿用紙やらノートパソコンやら散々に広げた状態で、片手を上げて私を出迎えた。

「少し、お早いのではありませんか。小生、ミョウジ殿がいらっしゃるのは1時間後と把握しておりましたが」
「ええ、すみません。時間に余裕があったので、来てしまいました。待ちますから、どうぞお構いなく集中して執筆を続けてください。もしお手伝いできることがあればしますし」
「そうは仰りましてもね、こちらとっくに行き詰まっております故、とりあえずお茶をお出ししましょうか」

 そう言って立ち上がると、夢野先生はさっさとインスタントの粉末緑茶を湯に溶かして出してくれた。初めて訪れたその日も、先生にお茶を出して頂くなんて、と言った私を制してお茶を出してくれたのも、それがイメージに似合わずインスタントで驚いたのも、今思えば懐かしい。

「相変わらず、不味いお茶ですね、先生。今度良い茶葉を贈りますよ」
「呵呵! 良い茶葉も勿論持って御座るが、拙者は客の質に茶の質を合わせておるので御座るよ」
「あらまあ! 先生にもぴったりのお茶ですしねぇ」
「其方も言うようになりましたな」

 夢野先生は可笑しそうに笑い、その勢いのままに机の上にあった書きかけの原稿をぐしゃぐしゃに丸めて床に放った。非難めいた目線を送る私に、「駄作でしたので」と肩をすくめて可愛らしく言う。

「それで。今日は何故早く来られたのですか。時間に余裕があったというのは嘘ですね」
「あー、はい。バレましたね」
「人の出鱈目には厳しいもので」

 私は目線に困り、とりあえず誤魔化すようにお茶を少し啜った。不味い、その上ぬるい。下の方で粉がダマになっていて、ゆらゆら揺らしながら飲まないと上の方は薄く下の方は濃い。

「あーえー、あのですね、お話があって、えーと……」
「ほれほれ、この夢野大先生が手を止めてそちの話を聞いておるのじゃぞ。さっさと申せ」
「で、ですよね。えーと」

 急かすように、先生はひらひらと手を扇いだ。胃からせりあがる何か、をぐっと飲み込み、私は口を開いた。

「実はわたくし。今月をもって夢野先生の担当を降りることになりまして」
「……はい?」
「後任につきましては今のところ検討中ですが決まり次第今月中に一度一緒に参りまして顔つなぎを」
「あの、ちょっと待ってくださいな」
「大事な連載も始まったばかりで大変申し訳なく思っております。が、責任を持って後任に引き継ぎますので今後もどうぞ何卒よろしくお願い致します」
「待ちなさいと言っているでしょう!」

 夢野先生が大きな声を出した。一気に言い終えた私は、俯いて、ふう、ふうと呼吸をしている。夢野先生の顔を見られなかった。まだ手に持っていた不味いお茶が、ちゃぷちゃぷと音を立てて揺れている。

「……理由くらいは教えてくれるのでしょうね」

 先ほどとは打って変わって、夢野先生はとても小さな声で言った。相も変わらず、私は夢野先生の顔を見られなくて、わけもなく、先ほど先生が打ち棄てた、駄作の原稿だった物を見つめながら口を開いた。

「……縁談が来まして」
「ふむ。……縁談とな」
「まだお会いしてはいないのですが。相手の方が大層私を気に入ってくれたそうで。お家柄的にも、うちの両親は断るだなんて滅相もないと申しております。その御方が、結婚したら是非家庭に入って専業主婦になって欲しい、と」

 恐る恐る、夢野先生を窺い見る。先生は、無表情だった。私は再び目を落として、不味い緑茶を一口、二口、啜った。先ほどまで薄くて不味かった茶は、今や濃くて不味い茶になっていた。

「……自惚れでなければ、」

 無感情な声だった。思えば、初めて出会った頃の夢野先生はこんな感じだったかも知れない。私が担当になる前、夢野先生の出鱈目に辟易して、何人もの編集者が担当替えになっていた。もちろん私にも出鱈目ばかりを言って、いちいち信じる私を揶揄っていたのだけれど、その時の夢野先生はどこか無感情で、まるで私も辟易して退職するのを望んでいるかのようにも思えたのだった。

「自惚れでなければ。」

 夢野先生はもう一度言った。先生がここまで言葉を躊躇うのはとても珍しい。でも私には、先生が何と言いたいのか、検討がついていた。

「……貴女は、小生に好意を抱いているものと思っていたのですが」

 目線を上げ、夢野先生を見る。今度は、先生の方が私の顔を見られずにいるようだった。いつもと立場逆転だな、なんて、可笑しくて、可笑しくて、涙が出る。

「でも、しょうがないじゃないですか」
「しょうがないって、何ですか」
「いいんですよ。しょうがないんです」

 先生の問いかけの答えになっていないのは承知で、私は喋り出すしかなかった。喋り続けなければ息が止まって死んでしまうのではないかと、夢野先生の目を見れば、全てが崩壊してしまうのではないかと、恐怖と、渇望が、綯い交ぜになって、必死に目をそらしながら、言葉を吐き続けた。

「私もう、良い歳なんですよ。先生は、新進気鋭の売れっ子作家で、花盛りで。しがない、いちアラサー女編集者の気持ちなんてわからないと思いますけど。……この先、私が誰かに選ばれることなんて、多分ないんです。これが最後なんです。女として、選ばれて、しかもそのお相手が良いお家柄の人で……なんて、こんなの、う、嬉しいに決まってるじゃないですか」
「選ばれて嬉しい、ですか」
「先生は、選ばれ慣れているでしょうね。そうでしょうとも。でも庶民はそうじゃないんですよ。ご存じないですか、選ばれないのって、とても怖いんですよ、先生」

 気付けば、夢野先生は立ち上がり、先ほど駄作と言ってくしゃくしゃに放った原稿を拾い上げていた。呆気にとられて所作を見つめていると、先生は原稿の皺を伸ばし、綺麗とは言えないが読めるくらいの状態にした。

「これは貴女の所の雑誌から頂いたお仕事の没稿ですが、つまらない仕事なので筆が乗らず、書き上げられずにいるのですよ」
「な、んですか、急に……」
「既に完成された存在である童話の翻案小説だなんて、小生は面白みを感じません」
「引き受けてくれたじゃないですか……」
「ええ。でも童話の中でもこれは特に苦手でね、好みの問題ですが。別の童話に変えてもらおうと思っていたのです」

 今、夢野先生が言ったとおり、先生にお願いしているのは童話の翻案小説のシリーズだ。いくつかの童話をピックアップしてお願いしていて、記念すべき第一話になる予定だったのは……

「……シンデレラ」
「貴女にはぴったりかもしれませんね。反吐が出るようですよ」

 吐き捨てるように夢野先生は言った。おまけに、わざとらしくコミカルに、おええと嘔吐く真似まで添えて。

「いつか王子様が迎えに来るの〜みたいな、話ですか。……で? 迎えに来て選ばれるままにのこのこ着いていった灰かぶり娘は果たして幸せになったんですかねぇ? 誰も知らない? 知らぬが仏? それでめでたしめでたしとはまた無責任なものですこと」
「……で、でも。幸せかもしれないじゃないですか」
「そんなわけないですよ」

 あまりの言い切りように、つい先生の顔を見てしまう。夢野先生は、まるでこれは日常だとでも言うように、柔和に微笑んでいた。

「どんな道を選んだって、全てが上手くいくことなんてないんです。どんな道にも絶対の幸福はない。どんな道にも、後悔が付きまとう。……だから、自分で選ばねばならないのです。自分で選び、責任を負わねばならないのです」
「こ、後悔なんて……」
「……正直言って、小生は貴女に甘えていました。何故でしょうね、貴女なら、傍にいてくれると、思っていたんです。貴女なら、小生を選んでくれると。だからこそ、曖昧なまま、貴女を手元に置いておきたかった。……選ぶことから逃げていたのは、小生の、方ですね」

 沈黙のなかで、自分の鼓動ばかりが聞こえた。先生、先生、また出鱈目を仰っているんですよね? そう思うのに、何故か口に出せない。長い長い沈黙が過ぎたように感じた。そう感じただけで、実際には数分と経っていないだろうけれど。それを打ち破ったのは、夢野先生が吐いた「はあ、」という自嘲的な溜め息だった。

「選ばれない選ばれないと仰りますけれど。小生が貴女を選び、貴女が小生を選んだからこそ、今ここに居るのだと。我が家の扉の鍵が開いているのは唯一貴女が来る時だけで、そしてその扉を開こうとする奇特な人間も貴女ただ一人なのだと。お気付きになりませんかね」
「あっ、」

 どたどたという音、そして柔らかい畳が背中に当たる感触がして、初めて自分が所謂押し倒された形になっていることに気付いた。すぐ目の前に、夢野先生の顔があって、久方ぶりに視線がかちりと合う。

「良い眺めです」
「……趣味が悪いですね」
「減らず口も嫌いじゃない」

 先生はゆらりと仄かに笑った。簾のように顔にかかる焦香の髪が、艶やかな光彩を浮かべているようだ。啄むような口づけは、先生に似合わず優しかった。

「選べば良いのですよ。今すぐにここを這い出て、犬に噛まれたぁ、とお初にお目にかかる婚約者殿に泣きつけばよろしい。あるいは、このままここにいて、小生の破壊衝動を受け止めることを選んでもいい。舞踏会に行って王子様を待つか、ネズミとこのまま駆け落ちをするか。選ぶのはナマエ、貴女です」

 まるで出鱈目を言う時みたいに、夢野先生は愉しそうに語った。
 ……でも、私はこの人の詭弁には慣れている。もう嘘の話に踊らされたりしないし、この人の手のひらの上で転がされるつもりも、ない。

「いいえ」

 先生は驚いたように、ゆっくりと目を見開いた。常磐と菖蒲が混ざり合う、妖なる色彩が、瞳の中で揺れ動く。

「どうしてその、二択なのです、先生?」
「……はて」
「そんなちゃちなダブルバインド、恋愛指南本にでも書いてありましたか」
「何を申しますやら」

 私は横たわったまま、先生の肩をぐいと押した。力を強く込めるまでもなく、夢野先生はすぐに私の上からどき、そのまま畳の上で正座をした。私も起き上がり先生に向かい合う形で座る。すぐ隣にある卓袱台には、シンデレラの没稿が静かに居座っている。

「先生のお言葉で目が覚めました」
「それは、何よりですね」
「私、選びますよ。もっともっと沢山の選択肢から。そんな二択に狭められてたまりますか。世界中の男にガラスの靴を持ってこさせて、履き心地を吟味してやりますよ」
「あはは。……好きですよ、貴女のそういう所」

 ややあって、夢野先生は気まずそうに目をそらした。気まずそうに、だなんて、先生に似合わぬ、酷く俗っぽい動作なのに、不思議と違和感はなかった。何故だろうか、私はこの人の、こういうちゃちなところに、堪らなく惹かれてしまうのだ。

「……と、いう、筋書き、でありんす」
「……はい?」
「わっちとしては、そういう筋書きで連載第一話を考えなんす。主さんはどうお考えざんす? 結末はどうしんしょう?」
「夢野先生?」
「辛口のミョウジ先生のご意見を聞かせておくんなんし」
「先生? 幻太郎先生?」

 私は、自分の口角が上がっていくのを止められなかった。ああ、なんと安っぽい嘘だろう。ああ、なんと愛おしいひと、だろう。安普請のぼろアパートも、Wordで書かれた原稿(MS明朝)も、粉を湯に溶かしただけの茶も、全部全部、私にとっては夢野先生そのもので、端正な顔立ちや人を寄せ付けない雰囲気なんてものはそれこそ、このひとの作り出した出鱈目なまやかしの一部でしかないのだ。

「……先生は、意気地無しですね」

 廓言葉を使うに相応しい、艶美なしなを作りながら、夢野先生はくすっと笑った。

「いいですよ。私がその物語の結末を教えてあげます」
「……光栄ですね」
「シンデレラは自分で選ぶのです。それは——」

 正面に座る先生の、右肩のあたりをトンと軽く押すと、先生は無抵抗に、後ろにドサッと倒れた。私はその上に、視界を隠すように覆い被さった。今頃、先生も背中に畳の感触を感じているのではないだろうか。

「ねずみでも、王子様でも、世界中の男でもありません。……あの日、魔法を掛けてくれた魔法使いを、こうやって押し倒すんですよ、幻太郎先生?」
「……ああ、」

 先生はまた、ちゃちで俗っぽいニヤリ笑いを浮かべた。何を選んだってどうせ後悔するならば、上澄みの薄っぺらい虚飾よりも、底に溜まった濃い汚泥を私は選ぶ。どっちにしたって、そもそもインスタントの茶は不味いし、それを好んで飲んでいるのは私なのだ。

「貴女の、そういう所。本当に好きです」

 先生は、今度こそ本当に可笑しそうに笑った。啄むように口付けるなんて、私にだって似合わない。思いっきり舌をねじ込むと、粉っぽい緑茶の味がした。



どうせ一緒に灰かぶるなら
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