憂鬱なオペレッタを置き去りに

いちにいさん
























 今、私の憂鬱を色にするとするならば、きっとこの空のようになるだろう。くらい、くらい、あお。月の光など、灰色の雲に隠されているくらいがちょうどいい。

 靉靆とした気持ちに理由などなかった。バルコニーの端に立ち、空を見上げれば自分の小ささを強く再確認させられるし、下を見れば思いがけず希死念慮に襲われる。前を見れば空虚が心を支配するし、後ろを向けば直視すべき現実が待っていた。冷たい風が頬を撫でる。
 難しい仕事ではなかった。今日はとある屋敷でパーティが催される。パーティ中の隙を縫って屋敷に潜入し、居室にいるであろう跡継ぎの命を奪う。それだけだった。この仕事を依頼してきた男は、跡継ぎの──9歳になる、年端もいかない少女の写真を私に見せながら、『簡単な仕事だろう? あんたには』と言った。私も、そう思う。簡単な仕事だ。

 基本的に、一人でこなせるような簡単な仕事は"シャドウ"に任せることにしていた。シャドウは私の分身であり、私自身であり、双子であり、相棒でもある。彼女が今何を考え、何をしているのか、私にはわからない。でも大体の想像はついた。これが私の能力だ。記憶を共有し、頭脳も全く同じものだが、意識や感覚を共有しない完全なる自分のコピー、これを私は"シャドウ"と呼んでいる。私とシャドウを繋ぐのは、微かな自分のオーラの気配だけだ。

 ふつ、と嫌な予感がして我にかえった。振り返ると相変わらず屋敷の中では華やかなパーティが続いている。シャドウの気配を辿るが、消えてしまったとか、そういったことはなさそうだ。しかし嫌な予感は拭いきれず、慌ててシャドウが仕事をしているはずである、跡継ぎの少女の部屋へと向かった。








「遅かったね」

 息を呑んだ。

「来ないかと思った」

 ベッドの上で、件の跡継ぎの少女が毛布を握りしめて震えていた。ああ、確かに現当主と似ている。シャドウが、何かを訴えるように私を見下ろした。よく見ると、口元から流れる血が痛々しい。無意識に、私は自分の口元を拭った。もちろんそこには血などない。私が、わらう。男も、わらった。

「……誰」
「つまらない質問だな」

 男がシャドウの首元を締める力を強めた。咽せ込む前に、シャドウを引っ込める。急に持ち上げていた重さを失った男は一瞬「おや」という顔をして、そして更に笑みを深くした。
 それが、私達と、奇術師の出会いだ。

いち・にいさん

(121207)






















 気分が晴れるときなどほぼないに等しいが、今日は特に憂鬱だった。卵を割ったら殻が入ってしまったとか、買い物に行きたかったのに雨が降ってるから行く気をそがれたとか、隣の部屋の夫婦喧嘩がうるさいとか。些細なことの連続に、何に対してもやる気が起きなかった。
 玄関のチャイムのなる音がして、あまりの億劫さにシャドウに頼もうとするが、そういえばこの能力は夜限定の能力なのだったと落胆した。まったく、仕事のときは支障がないとはいえ、私生活においてはなんとも厄介な制約である。仕方なく自分の重い腰をあげチェーンをつけたままドアを開けるが、不思議なことに玄関の前には誰もいなかった。遠くで子どもの甲高い笑い声が聞こえる。私は項垂れた。最悪、最悪だ。あの常識のない子どもたちも、この歳にもなって子どものピンポンダッシュに本気で腹を立てている自分も。

 不思議なもので、仕事中合図を待つ5分や、移動のために電車に乗っている10分は我慢できず苛立ってしまうのに、自室でソファに体育座りをし、色移りゆく空を眺めているといつのまにか4時間5時間と経っている。今日のように、いつもより憂鬱な日は特にだ。我に返ったのは、再び玄関のチャイムが鳴ったときだった。はっとなって立ち上がり部屋を見回すと、いつのまにか電気を点けないとならないほどに暗くなってしまっていた。日はすっかり沈んでしまっている。私はソファに座り直し、シャドウを出現させた。夜になれば、面倒なことは全てもう一人の自分に任せてしまえる。

「またこんなことのために私を出したの」

 シャドウは不機嫌そうに下唇を噛んで玄関に向かった。何だかんだ言って私の言うことは聞いてくれるのだ。私とシャドウは、似ているようで正反対だった。私だったらそんな面倒なことを人に押しつけられるのはまっぴらごめんだし、でも一方でああやって文句を言いたくても言えない性分だ。時折、私はシャドウのことを羨ましいと思った。彼女は、私自身だとは思えないほどに、時に常識的で、思慮深く、快活だった。

「今日もずっとここにいたの?」

 シャドウはリビングに戻ってくると、電気を点けながらそう尋ねた。私は小さくこくりと頷く。彼女は呆れたように散らかった衣類を片付け、朝のまま放ってあった皿をてきぱきと片付けた。

「私もあなただから。気持ちはわかるんだけどさ。でももうちょっとしゃきっとしたら」
「……うるさい。ねえ、チャイム、誰だったの? 子どもの悪質な悪戯?」
「子どもの"可愛い”悪戯だよ。そんなことよりほら、仕事着に着替えなさい。今日はまた夜中から仕事でしょう。いくら私があなただと言っても、代わりに着替えることなんてできないんだから」

 まるで、出来の良い姉か、小煩い親のようだ。このしっかり者が私の中から出てきたなんて、自分でも信じがたいくらいである。私はのそりとソファから立ち上がり、とりあえずシャドウを引っ込めた。動きやすい服に着替えて初めて、今日はせっかくスカートを履いたのに一度も外に出なかったことに気付いた。

いち・にい・さん

(130105)






















 昼間の憂鬱など、仕事の憂鬱に比べれば大したことない。それも、いつも通りのようにいかない仕事ならなおさらだった。シャドウは私と目が合うと首を竦めて見せた。

「遅かったね」

 まるで当然かのごとく、奇術師は奇術師の仮面を被り、私たちを待ち受けていた。何の変哲もないオフィスビルの非常口は嫌らしい程に生活感を漂わせている。この場所に、奇術師など必要とされていないはずだ。ひどく不釣り合いな存在を、世界は吐き出すでもなく、甘んじて受け入れていた。シャドウを見ると、彼女も同じことを考えているのか居心地悪そうに下唇を噛んでいる。仕方なく何か言おうと私は口を開くが、言葉を発するよりも早く、奇術師はスッと私の右手を取り唇を寄せた。

「、な、何、して、」
「あいさつ」

 我に返りバッと手を引くと、男は意外にもあっさりと手を離した。あいている方の手で右手の甲をこれ見よがしにさすりながら奇術師を睨めば、おどけたように首を竦め瞳を見つめられる。

「ここの社長秘書だろ?」
「え?」
「今回のキミのターゲット。……いや、一応、"キミたちの"と言っておくか」

 奇術師然とした態度は先日と全く変わらない。相変わらず厭らしい笑みを浮かべ、暴力の気配をちらつかせる。私はいつまでたってもこの男の笑みに慣れることができず、息を吐いて目を逸らした。シャドウが唇を浅く噛む。


「ボクが殺しておいてあげたから」

 悪魔の言葉は、案外私のなかにすとんと収まった。驚きは余りなく、先ほどここに彼がいるのを目にしたときから心のどこかで予想していたくらいであった。

「キミにはこの仕事は向いてないだろ? もう今日は帰ったら、お嬢さん」
「ちょ、ちょっと待って!」

 声を上げたのは私、ではなかった。シャドウはいつになく焦っているようだった。彼女が髪を掻き上げるのにつられて、私も右手で自分の髪を触る。

「どうしてそんな、勝手なことをするの? もしかして、私たちのためだとでも思っているのかも知れないけど。そんな必要はない。私たちにもプライドはある。ねえ、ナマエ、あなたからも何か言いなさいよ」
「わ、私は……」
「なるほどね。キミがナマエ、それにキミが具現化されたナマエのオーラというわけ」

 そう言って、彼は私とシャドウを順番に指さした。私はあまりの居心地の悪さに、シャドウの袖を掴む。シャドウも、自分の袖を掴んでいた。

「ナマエ、この男じゃ不安だよ。ちゃんとターゲットが始末されてるか、確認しに行こう」
「え……いいよ、シャドウ、今日は帰ろうよ。この人の言う通りだもの。私、もう帰りたい」
「バカにされたままでいいの? それに仕事はきちんと全うするべきだよ」

 私だって、もちろんそうしたいし、そうする義務があるだろう。しかし、何故か今日はこの男に抗いたくない気分だった。この見透かされるような手つきに、私たちが抗うことまで見透かされているような気がして。


「つまらないな」

 いつのまにか階段に腰を下ろしていた男は、放り投げるようにそう言った。苛立っているようにも見える。射竦められるような鋭いオーラに、私たちは口論をやめた。シャドウが唇を浅く噛む。

「結局のところ。キミは一人だ。"それ"はオーラに過ぎないんだよ。お嬢さん」
「そ、そんなことわかって、でも……」
「ほら」

 すとん、すとん。

「え?」

 増幅した凶暴なオーラに、急に激痛を感じ、右目を押さえた。

「なに、す……!」
「何も?」

 まるで鋭利なものを刺されたかのような痛みに、私はただ眼を押さえてうずくまった。必死の思いですぐ横を見ると、シャドウも同じくうずくまっている。左目を押さえて。私はハッとなり、右目を押さえていた手のひらを慌てて引きはがした。すると案の定、血など出ていなかったし、よく考えてみればあの激痛など嘘だったかのように引いていた。妙に冷静になった頭で考える(私は……)。立ち上がるが、シャドウはよほど痛いのかまだうずくまっていた。

「可哀想に」
「あ、あなたが、やったんでしょ」
「まあ、そうだね。言いようによっては。」

 シャドウの足下に、はたはたと血が落ちる。……とは言っても、それも結局はそう見えるというだけで、本質的には私が練ったオーラのなれの果てだ。忘れかけていたあまりにも現実味のない現実に、眩暈を覚えた。心なしか未だに、右目の奥がズキズキと痛む。

「キミ、そうやって唇を浅く噛む癖、辞めた方がいいよ」
「え、……わ、私……」
「キミってさ」

 足下で蹲るシャドウは、恨めしそうにこちらをちらと見た。血は止まることなく、流れ続けていた。男ではなく、確実に私に向けられた憎しみを含んだ視線を、私は受け止めきれずに再び唇を噛む。

「つまらないよ。シャドウだかなんだか知らないけど。結局キミはそいつのことじゃなく、自分のことしか見てない。そいつじゃなくてキミが、シャドウなんじゃないの?」

 男はニイと笑い、私の手を取る。引っ張られて駆けだすと外は既に日が昇っており、シャドウを出すことのできない制約の時間はとうにやってきていたのだ。後ろを振り向く。シャドウが寂しげに微笑む。そこには血など落ちていなかった。シャドウなどいなかった。噛みすぎて少し腫れた唇を手で擦ると、男は再びニイと笑った。

憂鬱なオペレッタを置き去りに
(130203 完)