「これ、傘あってもなくても関係ないね」

 そう言って及川は傘を畳んだ。じっとりと、私達をしつこい湿気が襲う。細かい粒子は首元から袖口から、あらゆる隙間から入り込んで素肌を包み込むようだった。私は及川が風邪を引いてしまうんじゃないかと、気が気でなくて、彼のことを見ていた。バスに乗るまでの徒歩数分。私ばかりが及川を見ている。及川は、何をみているのだろう。霧雨に焦点を合わせる振りをして。バス停に着くと、ちょうどバスが来たところだった。これに乗るのは私だけだ。

「じゃーね、ナマエちゃん。また今度」

 及川は手を振った。やっぱり彼は、霧雨を見ている。

夜霧雨(及川)
(200614)
(title by icca
back to … list or Apathy









 練習試合で行った近隣の高校に、いくつかの書類を忘れてきてしまったらしい。そこでマネージャー、つまり私が自転車で取りに行ってくることになったのだが外は……生憎の、土砂降りだった。
 猫又先生は、「レインコート着れば行けるだろ!」って無責任に笑ってたけど、結局行くのは私だ。ぶつくさ文句を言いながら、レインコートを着込む。これで風邪を引いたら本当に恨む。3年生の引退後で、マネージャーとしては部を支えるために重要な時期なのに。

「よ。じゃあ行こうか」
「……黒尾先輩?!」

 駐輪場に着くとそこにいたのは引退したはずの黒尾先輩だった。ご丁寧に、既にレインコートを着ている。

「いやぁ、ミョウジとレインコートでデートできるって、聞いたからさ」

レインコートでデートを(黒尾)
(200614)
(title by icca
back to … list or Apathy









「……おっと、電話、切られちった」

 黒尾は舌をぺろっと出して、その割りに全然気にしてない様子でスマホを仕舞った。切られたって、当たり前だ。まず何のために急に電話がきたのか、研磨だってわからないだろう。

「俺って……弱い人間だよね〜」

 甘えた声で、私にしなだれかかってくる、大男。何でも器用にこなす癖に、なにもできない不器用な幼馴染みに、唯一勝てない物があることを、歯を食い縛って悔しがっている。私は、ただ研磨への当て付けのために黒尾に手ごめにされた、憐れで馬鹿な女だ。なのに、私はこの、自分よりも馬鹿な男を愛さずにはいられない。器用なはずなのに、馬鹿な男。『弱い』という言葉を隠れ蓑に、自分の愚かさを決して見ようとしない男。私はこの男に自分を見て、この男の中の自分を愛してしまうのだ。

おっと電話を切られてしまったね。(黒尾)
(200719)
(title by icca
back to … list or Apathy









「あれ、男手借りるって……菅原だったんだ」

 弱小吹奏楽部にも、大事な大会の日というものがある。それが今日だった。早朝に集まり、演奏の最終確認をしてから、楽器や道具を先生が手配したトラックに運び込む。さあ運ぼう、という時、先生が言ったのだ。『朝練してる部活があったから、男手借りれないか聞いてくるね』と。そしてやってきたのが、同じクラスの菅原だった。

「あ、ナマエ、オハヨー……」
「ありがとうね。女子が多いから助かるよ。でも、菅原が来てくれると思わなかったよ。一応うちら3年じゃん? そういうのって、後輩に任せるかと……」

 早朝とは言え、夏の日差しは容赦なく照りつけてくる。菅原は酷く汗をかいていた。

「ほ、ほら、俺が来たのはさ、」
「うん?」
「あ、東峰とか見ればわかるだろ? うちの連中って人見知りでコミュ障のくせに無駄にでかくて威圧感半端ないし、あっほら俺はナマエもいるから慣れてるっていうか、あー、人助けって気持ちいいよね、アハハ、ボランティア精神に溢れる俺、っていうか、吹奏楽部っていつも頑張ってるよなぁ、とかなんとか……」

 物凄い早口だ。と、同時に見てわかるほどに菅原の顔から汗が吹き出しているのが見える。

「言い訳、しちゃったりして。」
「菅原……?」
「ほんとはさ、ナマエにいいとこ見せようとしたんだよね。なんて、言っちゃったら格好つかないかぁ」

 菅原は、汗だくで、はにかみながら、眉を少し寄せてにっこり笑った。大丈夫、格好いいよ、なんて言ったら、もっと汗をかいてしまうかなぁ。

とかなんとか、言い訳しちゃったり。(菅原)
(200719)
(title by icca
back to … list or Apathy









「あは、ミョウジさんて、俺のこと好きなんだ?」

 ただでさえでかい背の奴が立っていて、ただでさえ特にでかくもない奴が座っていたら、それは山を見上げるのと変わらない。頂上とおぼしき顔面は、良く見えない、というか、見たくなかった。見なくても、おぞましい怒りを湛えていることが想像ついた。及川は軽く足を動かして、私の太もも辺りに当てた。軽く、蹴った。

「……痛い」
「お前が俺のこと好きとか、ゆーから、」

 とん、とん、と及川の足が当たる。本当は、痛くはなかった。ただシンプルに、彼の憎悪が伝わってくるだけだ。

「……岩ちゃんには、言うなよ」

 そう言って一度だけ、口づけた。彼にとっても、私にとっても、終わりの合図だ。

行き止まり(及川)
(210415)
(title by icca
back to … list or Apathy