みんな、浮かれちゃって、ばかだな。
 内心でそんなことを考えて、でもすぐに自分の根暗加減に辟易した。別に浮かれたっていいじゃないか。N.E.W.T試験も終わり、いよいよ残すところあと数週間で、私達は卒業するのだ。7年間も過ごしたこの場所を離れる。浮き足立ったり、感傷に浸ったり、残りの日々を楽しく過ごしたりすることは、そんなに不思議なことではないだろう。私みたいな内向人間を除いては、だが。
 ホグワーツは広い。広いだけでなく、様々な隠し部屋や隠し通路があり、生徒達は思い思いに自分たちが見つけた場所を便利に使っている。引きこもり体質の私にとっては、通常使う範囲だけでも広すぎて、これ以上何かが隠れているなんて、目眩がする程だ。先ほどから、先生に頼まれた届け物を持って校内を歩いているのだが、ここは卒業目前にして初めて通る廊下だった。……さすがに、自分の内向加減に笑えてしまう。

「……ね、最後のチャンスだよ。ちゃんと告白してみようよ」

 見知らぬ女の子のそんな呟きが聞こえてきたのは、届け物を無事に渡し終え、大広間の近くを通り掛かった時だった。よく見てみれば、大広間の真ん中辺りに、所謂“マローダーズ”と呼ばれる、グリフィンドールの男の子達がおり、その周りに人だかりが出来ているのが見えた。あの人たちについて、彼らはもう悪戯はしないらしいだとか、余りの人気に隠れファンクラブがあるだとか、エヴァンスを取り合って実は修羅場だとか、根も葉もない噂しか私の手元にはない。あんな、いかにも陽気で外向的な人気者とは、縁もゆかりも興味もない。私には関係のない人種だ。



「よ、ナマエ」
「……! し、シリウス……」

 無事に届け物を終え、自分の寮がある西塔に向かって歩いている時だった。突然声をかけられ、心臓が止まりそうになった。廊下の壁の、あらぬ隙間から、シリウスがにゅっと現れたのだ。

「おい、驚きすぎだろ」
「だって……さっき大広間にいなかった?」
「え? ここ隠し通路あるだろ。1年生だって知ってるよ。……ナマエ、知らなかった?」

 シリウスはからからと笑って、「ナマエ、ありえねー! ここも知らないとか!」と追い打ちをかけた。私だって、自分が人よりも圧倒的に内向的で、引きこもりで、みんなが知ってる暗黙の了解を私だけが知らないなんてこと、卒業間近にようやく気付いたのだから、あまり無邪気に刺してくるのはやめてほしい。
 そのままシリウスが付いて来ようとするので、私は立ち止まる。

「何で着いてくるの」
「俺も寮に行くんだよ」
「……あなたはグリフィンドール。この先はレイブンクロー」
「ひっかからないか〜」
「ひっかかるわけないでしょ」

 機嫌が良さそうに、シリウスはグンと伸びをする。この人が楽しそうだと、不思議とホッとした。私の中にあった、どろどろとして鬱屈とした心情が、笑顔一つで溶け出すようだった。

「……“勉強部屋”、行かない?」
「……うん、いいよ」

 私たちは踵を返し、レイブンクロー寮とは反対方向に向かった。私にも、一つだけあるのだ。皆が知らない、隠し部屋。シリウスと私だけが知る、特別な部屋。
 “勉強部屋”には、簡素な机と椅子が2セットと、古ぼけた大きなソファがあるだけだ。名前のとおり、ここは私とシリウスが勉強をするための部屋で、語り合うための部屋だった。図書室や授業でお互いを見つけて視線を投げ掛ける以外は、私はほとんどこの部屋の中でしかシリウスと話したことがなかった。

「……さっきの授業」

 “勉強部屋”に入ってすぐ、私は口を開いた。先ほど受けた、数占いの授業は、7年生ともなれば多くの人が履修しない不人気の教科で、私とシリウスはその数少ない履修者だった。

「そう! さっきの授業さ」

 シリウスは私の発言を捕まえて、とても嬉しそうに笑った。私まで嬉しくなる。まるで相手の言いたいことがはっきりとわかるまで通じ合えているような、まるでその通じ合えていることがお互い嬉しく、その嬉しさまでもがお互いに共有できているような。

「カバラの説明、先生間違ってなかった? 俺、言いに行こうと思ったんだけどさ、その前にナマエに確認したくて」
「そう! そう、密教との関連の所でしょ? 違うなぁって思った。確かに先生が言ってたのは通説だったけど、ここ数年は否定されてるのに。大事なところじゃないからいいかなって思ったんだけど、シリウスも気付いたよね」
「当たり前だろー。先生が話してる最中、『あーこれ後でナマエと共有!』ってウズウズしたよ」

 こうして、不人気教科について語り合える程には、シリウスとはなんだかんだ友達と言っていい関係だろうと思う。
 ……という、なんだか心許なく朧気な言い方をするのは、彼の『表の顔』とは全く親しくなれなかったからだ。
 私たちは初め、単なる『図書室でよく見かける人』の一人だった。彼は私の名前を知りもしなかっただろうが、反対に私は彼のことをよく知っていた。“マローダーズ”なる大仰な呼び名と派手な行動とは裏腹に、シリウスの勉強家な一面を知る人はどのくらいいただろうか。図書館の隅の最も目立たない席に、彼はよく座っていた。本をうずたかく積んで、できるだけ身を隠しながら、余程の読書家でも手を出さない、物好きのための物のような本を熱心に読んでいた。

 二人しかいない図書室で。私は、彼の零れそうな睫毛を見つめていた。見開いた瞳を彩る、きらきらと輝く魅力を知る者がどれほどいようとも、俯きがちで、深く深くと潜ってゆく彼の好奇心を知る者は、きっと私しかいなかっただろう。

 ある日ふとシリウスは、まだ知り合いですらなかった私に近づいてきて、唐突にこう言ったのだ。『たぶん、この話をできるのは君しかいないな』

 それから私たちは時折ひそひそと会っては、色んな話をした。二人きりになれる場所、と言って、誰も知らない隠し教室を教えてくれたときは素直に驚いた。ここが私にとって唯一の、ホグワーツを『使いこなした』証、のようだった。
 シリウスは、決して私のことを『女の子扱い』しなかった。隠し部屋で二人きりになって、私がドキリとすることはあっても、シリウスは全く意識していないようだった。はじめこそ、劣等感を掻き立てられはしたけれど、女性性を求めずとも二人で過ごす価値があるということなのだと思い直し、かえって自信が湧くようだった。

「あー、やっぱナマエは俺のツボ押さえてるわ。ナマエだけだよ、数占いの話なんてできんの」

 皆が知らない一面を知っていること。彼と私しか知らない、積み重ねられた二人の関係性があること。それだけで私はこれまでずっと満足だった。……これまで、は。

 今私達は、色々なことを見ない振りをして一緒にいるのだ。違和感も、寂寞も、全部ふたをして。
 それでも私は考えてしまう。これから、私達は離ればなれになる。

 この7年間、私達は、いや、私達以外も全て含めて、皆一緒に過ごしてきた。四つの寮も、はじめこそ強く意識していたものの、長く過ごすにつれ徐々に関係のない、ただの学友になっていった。私達は小さい頃からずっと一緒で、何の違和感も持つことがなかった。そしてそれは、私とシリウスの関係もそうだ。私達はたまたま、生まれた年と入学する年が同じだった。だから、受講する授業が同じだったし、一緒に過ごす時間が同じだった。
 ……でも、今になって、ようやく私の脳みそは、卒業を現実の物として捉え始めていた。ホグワーツを卒業したら、私たちは当然バラバラになる。卒業後の就職先は人によって本当に千差万別だ。余程の関係でなければ、卒業後も仲良く過ごす、なんてことは難しい。いわんや、心許なく朧気な関係をや、だ。
 本人に聞いたことはないが、多分、魔法に長けているシリウスやその友人達は、第一線に出て、魔法戦争に加わるだろう。対して私は、前線に出て戦うほどの勇気も魔力もない。ただ、勤勉さと論理能力だけは人並みよりも少し優れていて、そのお陰で魔法省の端っこに就職することが決まっていた。つまり、授業を共に受けることも、図書館で偶然すれ違うことも、目を合わせて合図することも、隠し部屋で討論に花を咲かせることも、全部、ぜんぶが、卒業とともに終わり、振り返られることもなく、思い出としても、友人としても、忘れられていってしまうのではないか。そう、思うのだ。だから、現実を確認するのが怖かった。もしかしたらシリウスも同じ思いなのかもしれない。7年生の6月にもなって、私たちは進路の話をしたことがなかった。私はシリウスが卒業後に実際どうするのか知らないし、シリウスも私がどうするのか、知らないだろう。
 そんなことをつらつらと考えて、“勉強部屋”を眺めていた。

「なあ。俺は、いつ、この部屋に来るのが最後になるのか、考えるのが怖いよ」

 だから、シリウスが急にそう言って、心臓が必要以上にどくんと鳴った。

「え、何……?」

 開心術でもかけられたのかと、心を読まれたのかと、思った。まさかそんなわけないのに、そんなわけないからこそ、私の心臓はまたきゅうっとひきつった。

「魔法省も騎士団本部も、部外者を引き入れるわけにはいかないもんな」
「な、んで……」
「ナマエの進路教えてくれってフリットウィックに聞いちゃった。ごめんな」
「別に、いつかは言うつもりだったから、いいけど……」
「ううん。そうじゃなくて。……お前に直接聞かなくて、ごめんな」

 シリウスは酷く寂しい顔で笑った。埃っぽい部屋には何十冊もの分厚くてつまらない本が置かれていて、ほとんど壁際が見えないほどだ。それはこの部屋が、私たちが卒業するよりも、入学するよりも、生まれるよりも、もっともっともっと前から『勉強部屋』として使われてきたことを示すものだ。当然、かつてこの部屋を使っていた先人たちは全員残らず卒業し、この部屋を去った。そして私たちも当然、先人たちと同じく、この部屋を去ることになるのだと、まざまざと突きつけてくるかのようだった。

「俺は、怖かったんだよ。だから、聞けなかった」
「うん……」
「なんかさ、俺たちって何だろう? って。友達なのか、何なのか。ナマエといる時、すごく楽しくて、でもジェームズたちといる時とはまるで違う感覚なんだよ。でもすごく……」

 さ迷うシリウスの目線が、あちらこちらに飛ぶのがわかった。私は続きを促さない。

「何て言うかな。わかんないけど」
「……私も、怖かったよ、シリウスの卒業後を知るの。まぁだいたい予想通りだったけど。実際に確かめるのは怖かった。確かめたら、本当になっちゃいそうって。可笑しいよね、確かめなくても本当なのに」
「そうだな」
「でも、今シリウスが言ってくれてよかった。これで本当に、ほんとうにほんとうに、終わるんだって、ちゃんと理解できたから」
「……そうだな」

 あのさ、とシリウスは何か言いかけて、やっぱり口をつぐんだ。私はようやく理解できた。多分、卒業後、わざわざ連絡を取ったり、会ってお茶をしながらお喋りをしたり、お互いに家族を紹介したり、みたいな未来は私達にはない。卒業したらもうさようなら。でもそれが、私達なのだ。ホグワーツで始まりホグワーツで終わった。その泡沫のきらめきが、私達の関係を特別にするのだ。

「……最後なんだな、今日が」
「そうだね」
「ちゃんと最後を最後って知れてよかった」
「うん」
「……あのさ、最後に、お願い。聞いてくれるか?」

 シリウスはくすんだ椅子から立ち上がる。

「……思い出、一つだけ、ちょうだい」
「……うん」

 左手でそっと優しく頬に触れて、柔らかくキスをした。蜃気楼みたいにゆらゆら揺れるシリウスの顔が目に映る。ああ、こんなにも不確定で不安定で、朧気だけれども。たしかに私はこの人を好きだったのだと思い知る。埃の匂いを吸い込む。吐き出す。息をするように。じっと、この瞬間を心臓に焼き付ける。

刹那ひかる、埃の煌
(210710)