ふと我に返る。覚束ない足取り、誰かが肩を支えてくれている。いやんなるなぁ。私は酔うといつもこうだ。意識がまだらになり、誰かさんの家のベッドで目覚めることもしばしばある。憐れな酔っぱらいを支えて歩く隣の人を確認すると、千さんだった。ああそうだ、連ドラのクランクアップの打ち上げで飲みすぎたのだ、と一人合点する。撮影中はほとんど絡みがなかったが、打ち上げの席でそこそこ話が盛り上がったことをかすかに思い出した。

「千さん、すみません。歩けます」
「きみ、さっきもそう言って派手に転んだんだよ」
「……そうでしたっけ」
「自分の両膝の絆創膏を見てごらんよ」

 確かに、膝には立派な絆創膏が左右それぞれに貼られていることに気がついた。ついでに、千さんがドラッグストアのレジ袋を手に提げていることにも気がつく。私はどこまではた迷惑な女なのだろう。でも、年増のくせにとか、年齢不相応とか、劣化とか、散々批判されたはずのミニスカートから、おてんば少女のように傷だらけの足が伸びている眺めは悪くなかった。少し愉快な気分になる。

「……てか、なんで千さんが介抱してくれてるんです?」
「本当に覚えてない?」
「んー、ごめんなさい。何も」
「何もか」

 こんなときでも、千さんの笑い方は爽やかだった。
 ふと下を見ると、足元に誰かが打ち棄てた空き缶が転がっていた。空き缶が、足に当たる。カラン、と音がする。そしてまた、我に返った。さっきも我に返ったつもりだったが、たぶん、返り足りてなかった。「……あの」恐る恐る声をかけると、千さんは間延びした声で「なあに」と言う。そういえば、私達はどこに向かって歩いているのだ?

「私達、というか千さん、今の状況、ヤバくないですか?」
「あは、ヤバい? 何が?」
「だって……」

 私の弱い頭で考える限り、読モ上がりの顔だけ女優(今は落ち目)と、超人気演技派アイドル俳優は、最悪の組み合わせだ。こんなところを誰かに見られる、あるいは週刊誌に撮られでもしたら、炎上は必至だ。私はたちまち勘違い枕女として転落、千さんも叩かれるだろうし、千さんを炎上させた女として私は更にファンから叩かれるだろう。共演した今回のドラマの評判も落ちてしまうし、出ているCMから違約金を取られるかも知れない。関係各所に謝っても謝りきれない。考えるだけで頭痛がしてくる。

「なにか、心配してるの?」
「だって私、ただでさえ落ち目だし、」
「まぁ、そんな怖がらなくても大丈夫だよ。やましい関係じゃないのは事実だし。胸を張っていればいい」
「……千さんが、怖いもの知らずなだけでしょ」
「ナマエが怖がりなだけだよ」

 千さんにそう言われて、そうか、私は怖いのだと気がついた。落ち目のモデル出身女優。このままちゃんとした女優に転身できるほどの演技力もなければ、モデル出身なのでと割り切れるほどの美貌も愛嬌ない。まっすぐ歩くのも難しいのに、一歩でも踏み外せば奈落が口を開けて待っている。かといって、今の私がこの道を歩むことをやめたとて、食べていける職が見つかるとも思えない。
 続けるのも怖い。やめるのも怖い。止まるのも、進むのも、逸れるのも、落ちるのも、全てが恐ろしい。どうして私は、こんなにも恐ろしい道を選んでしまったのだろう。それでも、あの頃の私に今の私を見せたからといって、夢を諦めてくれるとも思えなかった。寧ろ、私なら大丈夫、私なら夢を叶えられる、なんて、根拠のない負けん気を燃やしてしまっていたかもしれない。
(夢……、ね)
 あの頃の自分が何を夢見ていたのか、もうはっきりとは思い出せなかった。しかしどうせ、叶えたところでそれはもはや夢ではなく、叶わないのなら見る意味もない。

「そりゃ、怖いですよ。後がないですもん。前も後ろも真っ暗ですよ。どんどん歳をとって、美人でもなければ演技力もなければトーク力もなければ、太い実家もコネも縁もゆかりもない」
「あはは、ネガティブ」
「ネガティブにもなりますって」
「ふうん。きみは、こんなにきれいなのにね」

 はっ、と息を吸って、立ち止まった。もー、千さんの方が100倍綺麗なんだから、嫌味やめてくださいよー。言おうと思った軽口が、口から出ることなく脳内を通り過ぎていった。細く風が吹いて、少しだけ千さんの髪が揺れる。絹糸のような髪一本一本の合間から、柔らかな眼差しが覗いていて、私はまだ吸った息を吐けていない。

「どうしたの?」
「……あ、いや……」

 飲酒のせいで蜃気楼みたいに靄がかった脳内で、14歳の私が嗚咽を上げるのが聞こえた気がした。
 これが、夢だったのだ。私が叶えたかった、ささやかで小規模で可愛らしい私だけの夢。ただ私は誰かに、“きれいだね”と、言ってほしかったのだ。誰かの“きれい”になりたかった。怖がりで、小心者で、世間知らずの、14歳の少女の夢。

「……やっぱりやめようかなぁ、芸能界」
「いいんじゃない。向いてなさそうだしね、ナマエ。そしたら堂々と二人で歩けるし」
「千さんは芸能人なんだから、ダメでしょ」
「やましくないから、いいんだよ」
「……やましくないんだ」
「うん」

 はっきりとした口ぶりに、私は少し寂くなってしまったけど。千さんはくすくすと笑った。その笑いはどういう意味なのか、私には図りかねた。
 いつの間にかすっかり酔いは覚めていて、「一人で歩けます」と言うと、千さんはすぐに肩を離してくれた。数歩歩いてみる。足取りの安定性も良好そうだ。

「ほんと、もう酔いは覚めちゃったの」
「はい。ご迷惑おかけしました」
「なんだ。頼られてるみたいで、嬉しかったのに」
「……からかってます?」
「いや?」

 どこまでが冗談で、どこまでが本当かわからない。千さんの、その身軽さが羨ましかった。私もそうなりたい。私も千さんみたいに、夢に向かって無重力でありたい。

「とりあえず、これどこ向かってるんです?」
「え? それも忘れちゃったの?」
「はい」
「やだなぁ、もう」

 やっぱり嘯くみたいに、千さんは口を開いた。どこまでが冗談で、どこまでが本当か、私にはわからない。

「やましくないけど、僕んちに行くんだよ」

 多分、わからなくていいのだと思う。私をきれいだと言ってくれた、もっときれいなこの人と、夢みたいな夜を過ごすのだから。


深夜一時の祝福
(211219 連作:捨てる夢を見てる
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