「……ああ」

 大きなボストンバックを肩に提げて、馬鹿みたいに突っ立っている女。乱数はその女、私を見て鼻で笑った。どう見ても小旅行姿の私とは対照的に、乱数はいたっていつも通り、仕事用の机に向かってデザイン画を描いたりなんかしている。

「本当に来たんだ?」

 その冷え切った声色に、私は身を竦ませた。

「……乱数を、救いたかったから」
「違うでしょ、カワイイ乱数ちゃんを、でしょ」
「だから……」
「アハ、おねーさん、馬鹿だねぇ。カワイイだけの乱数ちゃんなんてこの世にはいないこと、あんたなら知ってたでしょ?」

 乱数の言うとおり、私は知っていた。知っていて、それでいてこの計画を辞めることができなかった。Fling Posseの乱数に十分な量の飴を持たせて、遠くに逃がす。党員である私にとっては、つまりそれは中央区を裏切るということでもある。……それもわかっていたのに、何故だか辞められず、私はこうして、大量の飴を鞄に詰め込んでここにいる。

「乱数、あなたに生きてほしいの」
「……だからぁ、」
「可愛くて、甘くて、ぐちゃぐちゃの、あなたが好きなの。だから生きて、ほしいの」

 私の中にある、なけなしの人間の心が、罪悪感に喘いでいる。だから、乱数を助けることで、私も甘くてぐちゃぐちゃなものになりたかったのだ。

「……あのさぁ、そんなに人助け気分が味わいたかったら、その辺の可愛いクローンでも捕まえて、逃避行でもなんでもすればぁ? そんで、一人で勝手に死んでよ。バイバーイ」

 乱数は立ち上がる。私はビクッと体を震わせる。近づいてきた乱数は私の手首を勢いよく掴んだ。一瞬怯んで、鞄を落としてしまう。だがよく見ると、乱数の手は震えていて、か細くて、今にも壊れそうだった。

「あのね」

 声色に苛立ちを隠さず、乱数は言う。それから、地面に落としてしまった、飴のたくさん入った鞄を、強い力で外に蹴り出した。

「僕は、おねーさんの身勝手な夢として消費されるつもりはないし、可愛くてぐちゃぐちゃで、しかも賢くて格好いい乱数なんだよねぇ」

 鞄だけでなく私を外に押し出した、その瞬間の、可愛くて甘くてぐちゃぐちゃの笑顔を、きっと私は忘れることができないだろう。

砂糖でできた国
(211219 連作:捨てる夢を見てる
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 就活というものを完全に甘く見ていた。これで将来が決まるというのがどういうことなのか、自分が選んだ相手に不合格を言い渡され続けることがどういうことなのか、半年前の私は全くわかっていなかった。これは、いつか何者かになれるような気がしていた私の、可能性をひとつひとつ潰す作業だ。お祈りメールを受け取るたび、思い描いていたはずの私の可能性は死に、その供養のために私も祈るのだ。

「……学生時代は、バレーボールに打ち込んでいました」

 今日も、そう言った。心臓が、痛かった。あんなに楽しかったはずのバレーが、自分の将来を潰さないための武器に成り下がってしまった。

「……ただいまぁ」
「お、おかえり。疲れたろ」

 そう言って孝支は立ち上がり、てきぱきと夕飯の準備を始める。テーブルの上を見ると、教採対策のテキストが乱暴に広げられていた。舞台は違うけれど、孝支も一緒に戦っているんだ、と背中を押されるような気持ちと、この人はこんなに頑張っているのにそれに引き替え私は、という卑屈な気持ちが交錯する。やっぱり、心臓がひどく痛んだ。『バレーボールに打ち込んでいました』だなんて言う資格、私にあるのだろうか? 私が唯一武器にできるバレーボールだって、この人に比べれば私はそこまでしっかりやっていたわけじゃない。魂を削ったわけじゃない。それでも、あの時は私だってこの人と同じように、何かを目指していた筈だ。それを、簡単に捨ててしまった代わりに、何かを得られると思っていた。
 ……現実には私は何も得られないし、私は何者でもないのだと思い知る毎日だというのに。

「簡単なご飯でごめんな〜」
「ねえ、孝支」
「んー?」

 鞄も置かず、ジャケットも脱がずにいる私を、孝支はまるで気にしてないみたいに微笑んだ。この人はそういう人だ。どんなときにも自分を持って、自分の感性で微笑むことができる人。

「……私って、なんなんだろ」
「ナマエはナマエでしょ。疲れてるべ、とりあえずシャワー浴びてこいよ」

 藁をも掴む思いで必死に両手で藻掻く私の手を、きみは当然のような顔をして引っ張り上げてくれるね。これは夢を捨てた二人の話であり、自分を捨てなかった二人の話だ。

永遠なんて蹴っ飛ばす
(211219 連作:捨てる夢を見てる
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