教授がインフルエンザになり、今年最後の講義は休講になった。雪の降らない12月のことだ。
 ほとんど空っぽのリュックを肩から提げて、キャンパス内を出る。駅までの、ビルの間を抜ける単調な道を歩いていると、前から知っている顔がやってきた。向こうもこちらに気づき、軽く手を挙げる。

「あれ、おかしーな。今やってる授業の終わりに、間に合うように迎えに来たはずだったんだけど」
「休講になったの。……こうも毎日毎日護衛に来てくれなくたって、私は大丈夫なのに」
「ま、俺たちが勝手にやってることだから、気にすんなって」

 そう言って、山本は朗らかに笑う。その笑顔がどうしても眩しくて、私は目を細めた。
 山本は、中学時代の後輩だ。喧嘩をしたと言って、体中に怪我をした山本たちが保健室に駆け込んできたときから、何だかんだと懐かれて今に至る。
 ——山本がボンゴレというマフィアに関わる危険な仕事をしていることは、数年前に知った。頼まれるがまま、わけも分からず、山本の言う“仕事”を手伝ったのがはじまりだ。山本と同学年の沢田(後にこいつもマフィアに関わる人間だということがわかるわけだが)の家に行くよう言われ、中に入ると部屋の中は負傷者がすし詰め状態になっていた。私が任されたのは、そいつらを病院に行かせるのか、その場で簡単な手当で済ませるのか、寝かせるだけでいいのか、とにかく処遇を裁いていく、という仕事で、その日の帰りに、山本や沢田、そして今日の怪我人たちは全て、マフィアの関係者であることを聞かされたのだった。……私が、こういうトリアージ的な仕事が得意なことを、いつの間に山本が知ったのかはわからなかったが、とにかくそれ以来、たまにそういう仕事をボンゴレから振られるようになった。
 ボンゴレというのはマフィアらしからぬ優しい組織らしい。期せずマフィアに関わり合いになってしまった私に、あれ以来こうして毎日護衛を付けてくれるようになった。色んな人が持ち回りで影から見守ってくれているらしいが、山本が担当の時だけ、こうして私の前に現れて、堂々と隣を守ってくれる。

「大学内は防犯システムがあるから大丈夫だけどよ、構内から出るときはもっと用心しろって」
「そんなこと言ったって、ここ数年毎日護衛をつけてくれてるけど、何も起きてないでしょ。だから大丈夫なんだよ、護衛なんかいなくたって」
「ハハ。違うって。護衛がいるから、何も起きないんだよ。俺たちこれでも、結構真剣にお前を守ってるんだぜ?」

 山本はまた眩しい笑顔を向けた。まさかこの人が生き死にが関わる戦いに身を投じる戦士だと、一体誰が信じるだろうか? 私だって、まだ信じられない。山本は、惑いながら私の歩く速さに合わせて、長い足をゆっくり運んでいる。

「でさ、考えてくれた?」
「……何が?」
「すっとぼけるつもりかよ?」
「……だって、現実味がなくて」
「現実だよ、マフィアも、ボンゴレも。……考えてくれよ、ボンゴレへの正式加入」

 前回、2週間ほど前だったか。ボンゴレの仕事をまた一つ手伝った。抗争の中で生まれてしまった身寄りのない子どもを、適切な医療や福祉に繋げるという仕事だった。その時に、ボンゴレという組織に正式に所属して仕事をしないか、と山本に誘われたのだ。

『あんた、すげーやつなんだからさ』

 と、山本はその時も眩しい笑顔を浮かべて、言った。私は多分、すごく戸惑った顔をしていたと思う。山本はそんな私を見ても落胆した様子も見せず、『ま、考えといて』とその時は言ったのだった。

「俺は、ナマエはボンゴレに来た方がいいと思うぜ。正式に入れば、今までと同じ仕事でも、給料も倍くらい出るんじゃねーかな。俺たちも護衛しやすくなるし。きっと、ツナもあんたのこと気に入るよ」
「私、まだ……覚悟ができなくて。大学で勉強したいことも沢山あるし」
「そっか。福祉の勉強だっけ? ナマエらしいな。……まあ、ゆっくり考えてくれよ。ツナにも言っとく」
「うん。沢田も、私はボンゴレに居た方がいいって思ってるのかな……」
「さあ、どーかな。……ていうか、ツナはナマエに何かを無理強いしたりはしないと思う。ナマエにボンゴレに来て欲しいのは、俺だよ。俺が、あんたと一緒の所で働きたいだけ」

 そう言う山本の、陽光みたいな笑顔を、私はまだ素直に受け取れずにいた。
 山本にこういうことを言われるのは、別に初めてじゃない。嫌な気もしない。そして、山本のことも、結構好きだ。……でも何故か、うんと言えなかった。だからといって、じゃあ普通の大学生として、普通の人間として、生きていくというのも、私は選べずにいる。ボンゴレも、普通も、ぴんとこなかった。どちらも向いていると思う。でも何故だろう、どちらもしっくりこないのだ。どこか渦巻く居心地の悪さを、私は唾を飲み込んで見ないふりをした。赤信号にひっかかって足が止まり、駅までの道のりが、やけに遠く感じる。

「……あのさ。ナマエが決めきれないのって、大学がどうとかじゃなくって……」
「うん?」
「もしかして、……もしかして、雲雀のとこと、迷ってる?」
「え?」

 唐突に出てきた名前。雲雀、って、恐らく、いや間違いなく、雲雀恭弥、のことだろう。私の脳が、その名前を理解し、飲み込むまで数秒、沈黙が私達の間を走り抜けた。何故だか、心臓がざわついて、得体の知れない何かが喉の奥からこみ上げる。

「何で、雲雀の名前が出てくるの……?」
「……違った?」
「いや、ていうか、卒業以来、雲雀とは会ってないし、接点もないし……」
「そっか、それならいいんだけどさ、何かあんたと雲雀って…………いや、なんでもない」

 山本は、この会話をなかったことにするみたいに、やけに明るい声で「ま、とにかくさ、気長に待ってっから!」と言った。信号が青に変わり、再び前に歩き出す。私はどうしても胸焼けみたいに居心地が悪くて、歯を食いしばりながら横断歩道を渡り終えた。

 いつも通り電車を乗り継ぎ、一人暮らししている学生マンションのエントランスに着いた。「それじゃ」と私が中に入ろうとすると、山本は「あのさ」と言って、私を引き止めた。

「俺……」
「……うん、どうしたの」

 凜々しい顔をめいっぱい困らせて、彼はうつむいていた。私には何となく、彼が言おうとしていることがわかる気がした。わかっていて、それで、わからないフリをして、もう一度「どうしたの? 何か、あった?」と聞いた。我ながらずるいな、と思う。でもずるさなら、お互い様だ。

「さっきも言ったけどさ、俺、あんたに俺たちのところに来て欲しい」
「……うん。さっき、聞いたよ」
「俺、あんたのこと、好きだ。でも、怖いんだよな。なんか、どっか行っちまいそうな気がするんだよ。ボンゴレに入ってくれれば、繋ぎ止められるような気がしてるんだ」
「……わ、わたし、別にどこかに行ったりしないよ。むしろ、どこかに行っちゃったりできない、つまらなくて堅実な人間だよ。これまでもいなくなったことなんてないでしょ。学校サボるのもほとんどしたことないくらいだし。だからそんな心配しなくても……」
「うん、いや、……うん。そういうことじゃねーんだけどな」

 俺、あんたのこと、好きだ。これまでにも何度も投げかけられた言葉だ。私は一度も返事をしたことがなかった。今も流してしまった。山本はそれに対して何も言わない。私はそんな山本に、いつまでも甘えている、酷い人間だ。でもそんな酷い人間を、山本は好きだと言う。
 私達はなし崩しに、「……じゃ」「うん」と言って変な空気のまま別れた。オートロックのドアがゆっくりと閉まっていく間、ずっとこちらを見ている山本の顔が視界の端に映っていた。

(220416)

悪魔と踊る、蛹の子ら