09 AM6:00の逃避行


朝、いつもの教室。向かいに座る心操君がふああ、と眠たげに欠伸を一つ零したのを、私は見逃さなかった。

「今日は随分とお疲れですね。寝不足ですか?」

「あ、いや…まあちょっと」

言葉を濁す心操君に、私もそれ以上の言及をやめた。まあ彼のことだから、大方夜遅くまで…若しくは朝早くから、トレーニングやら勉強やらその手のことに精を出した結果だと思うのだが、私がやめろと言ったところできっとそれは余計なお世話でしかないし、彼にとっても鬱陶しい以外の何物でもないだろう。

「…私、喉が渇いたのでラウンジの自販機で何か飲み物を買ってこようと思うのですが、心操君も如何ですか」

「いや、俺は…」

「歩くと、少しは頭も冴えるのではないでしょうか。どうでしょう、眠気覚ましに散歩でも」

ね、と私が念押ししてそう言えば、心操君はしばし思案して、それもそうだね、と持っていたペンを机に置いた。

「さ、行きましょう」

財布と携帯だけ持って、私と彼は教室を後にする。朝日が差し込む6時台の廊下は、物音一つなく静かだ。私たちのペタペタという足音だけが木霊する中、当然のように歩幅を合わせて歩いてくれる心操君はやっぱりとても優しい人だと、横に立つ背の高い彼を見上げながらふと思う。

「檻舘はさ」

「はい」

突然名前を呼ばれ、心臓がどくりと跳ねた。無遠慮に彼のことを眺めていたことを咎められるのかと思いきや、そうではないらしい。

「頭いいけど、いつ勉強してんの」

「頭がいい前提で聞かれても反応に困るのですが…別に極々普通の、一般的な勉強量だと思いますよ」

"心操君との朝の時間を除くと、基本的には放課後か夕食後に1〜2時間、予習復習をするくらいですかね"と素直にそう答えれば、彼は腑に落ちないといった表情で、そうなんだ、と呟いた。

「私の場合、心操君のようにトレーニングに時間を割いたりはしていませんから。運動と勉強を両立している心操君とは根本的に違いますし、心操君の場合は寧ろ今のままでもやり過ぎなくらいだと思います」

「…俺なんてまだまだだよ」

謙遜でもなく本気で言っているであろうその様子に、これは重症だと頭を抱えたくなった。彼はなんていうか、本当に自分に厳しい。

「…心操君は、何か趣味とかはありますの?」

「いきなり何」

「そういえば私、心操君のこと何も知らないなと思いまして」

というより、ストイックな人というイメージが構築され過ぎているせいで、遊んでいる様子が想像できないというのが本音である。彼は少しだけ悩むそぶりを見せたが、意外とすぐに答えを出した。

「サイクリングとかは割と」

「サイクリング?」

サイクリングということはつまり、自転車に乗る、ということだろう。

「あのシュッとした自転車ですか」

残念ながら私にとって明るい分野ではなかったため、至って真面目な問いだったのだが、心操君にはそれが大層面白かったらしい。鳩が豆鉄砲を食ったような表情をしたのち、ツボに入ったのか彼にしては珍しく腹を抱えて笑い出した。

「檻舘、おま…シュッとしたって何…」

「ええ…私、そんなに笑われるようなこと言いました?」

サイクリングと聞いて私のイメージの中にある自転車は確かにシュッとしていたのだが、伝わらなかっただろうか。

「あれね、カゴ付いてなくてサドル高くて、ハンドルがカーブしてるやつのことでしょ」

「それです、それ」

「あれロードバイクって名前。まさか檻舘からそんな幼稚園児みたいな感想が出てくるとは思わなくて…」

笑いを堪えようとしているのか(堪えられていないが)肩を震わせる心操君に、発言した私も段々と恥ずかしくなってくる。

「…忘れてください」

「いや、一生の思い出にするわ」

「しなくていいです!」

頬に熱が集まるのが自分でもわかる。顔を見られたくない一心で階段を駆け下りたが、私の抵抗も虚しく、彼は涼しい顔で私の横を歩き続ける。足の長さの違いが憎い。

「ごめんごめん。逆に、檻舘は趣味とかないの」

「私ですか…」

私から振った話題だ。当然私にも質問が返ってくることは容易に想像がついたが、こうして考えてみると趣味というのは中々難しい。これといって思いつかない…否、正確に言えば一つ、好きなことと言われて思いつくものはあるのだが、何如せんこれを出会って間もないクラスメイトに話すのは流石に躊躇う。

「…無難ですけど、読書と映画鑑賞は人並みに…?あとは展示会とか、美術館に行くのも好きですが…これは趣味というより仕事でしょうか」

結局、無難な趣味の代表格を挙げさせてもらった。まあ、嘘は言っていない。

「展示会って、服の?」

「服に限らず、絵画なども行きますよ。インスピレーションが湧きますから」

「檻舘ってデザインもするの」

「そんな大したものでは…ただ、両親の作品に意見を求められたり、コレクションの手伝いをすることもあるので。謂わば感性の勉強といったところでしょうか」

そんなさもない話をしているうちに、お目当ての場所に到着した。自販機が数台設置してあるラウンジは、普段は生徒で賑わっているが今は当然のように無人だ。

「何飲むの?」

「朝ですし、無難にコーヒーですかねえ」

財布から500円玉を取り出し、特に迷うことなく私はいつもの黒い缶を選んだ。

「ブラック飲むんだ」

「心操君は微糖派ですか」

「まあ…」

歯切れの悪い返事。この様子からすると、彼はあまりコーヒーが好きではないのかもしれない。

「眠気覚ましには、意外にコーラなんかも良いらしいですよ」

炭酸はお好きですか、と、私が尋ねれば、まあ、普通に好きだけど…との答えが返ってきたので、私はそのままコーラのボタンを押下した。ガコン、という音とともに赤い缶が落ちてきたのを確認して、私は黒い缶と合わせてそれらを取り出した。

「どうぞ、ここまで付き合って頂いたお礼です」

「悪いよ」

「私が心操君にお渡ししたいんです。お節介かもしれませんけど」

なかなか受け取ってくれない心操君に、調子に乗り過ぎたかなと心の中で反省する。しかし、ここまで来てしまったら受け取ってもらわないとただただ一人突っ走った恥ずかしい人間になってしまう。それは避けたい。

「それに、私は逆に炭酸が苦手なので、受け取って頂かないと処理に困ってしまいます」

「…じゃあ、遠慮なく」

赤い缶がようやく彼の元に渡る。押し付けがましかったかなとも思ったが、心操君がその場でプルタブを開けるのを見て、とりあえず嫌いではないらしいことがわかり安堵した。

「…確かに心なしか目が覚めた気がする」

「コーラに含まれるカフェインと炭酸の刺激が、眠気覚ましにはうってつけらしいですよ」

まあカフェインが実際に効果をあらわすには30〜40分かかるらしいが。プラセボであろうと効果があるのであればそれで良い。

「それにしても、檻舘も自販機とか利用するんだな」

「…心操君は私を何だと思ってらっしゃるんですか」

「いや、なんか執事の淹れた紅茶とかしか飲まなそうなイメージだから」

「そんなステレオな…」

「ファストフードとか食べたことある?」

「私、そんなに世間知らずではありませんわ」

自販機だって普通に使うし、ファストフードだって食べたくなったら自分で買いに行く。私がそう伝えると、心操君はへええ、と本気で感心しているようだった。てっきり心操君なりのジョークだと思ったのだが、本気で思われていたらしい。

「檻舘って意外と庶民派なんだな」

「意外も何も、私は元々庶民派ですわ」

「黒塗り高級車の送迎は?」

「私の通学手段は電車と歩きです」

そんな他愛もない話が続く。缶が空になるまでの間、私と心操君はそのまま立ち話を続けた。

「心操君の最近のマイブームは何ですか?」

「んー、マイブームって言うのかわかんないけど、通学路でよく見かける猫が気になってる」

今日新たに知ったこと。心操君の好きなものは、サイクリングと猫。帰り道に同じ猫と鉢合わせることが多く、その猫を観察するのが好きだと話す心操君は、いつもとはまた違う一面が見えて少し可愛らしかった。あとは、意外と甘いものが好きだとか、苦手科目は生物と美術だとか。最近はまっているバンドの曲も教えてもらった。

「…さて、そろそろ戻りましょうか」

気付けばすっかり空になっていた缶をゴミ箱に投げ入れる。思いの外休憩し過ぎてしまったかもしれない。

「ご馳走さま。次は俺が奢るから」

「まあ、楽しみにしてますわ」

教室へと戻る道中、階段の踊り場の窓から青々とした晴空が広がっているのが見えた。

「今日はいい天気ですね。こういう日こそサイクリング日和なのではないですか」

「だね、あのシュッとしたやつで」

「だから忘れてくださいってば!」

心操君は私の先程の発言を大層気に入ったらしい。私としては一刻も早く忘れてほしい記憶なのだが、こうやって彼の笑顔が見れるのであれば、あの馬鹿丸出しの発言もいくらか報われるというものだ。

「俺、檻舘のこと結構誤解してたな」

「私も、心操君が意外と意地悪だということを今日初めて知りましたわ」

二人で顔を見合わせて笑う。彼の表情は、教室で見ていたものよりも大分朗らかだ。

「ありがとう、おかげでいい気分転換になった」

「どういたしまして」

今日の朝活の進捗は当然芳しくないが、たまにはこういう日もあっていいだろう。隣を歩く彼の表情を盗み見て、私もいつもより晴れやかな気持ちになった。


09 AM6:00の逃避行


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