12 ドラジェ・ピンクのまぼろし


「して、策はありますの?」

「…藪から棒に、何」

正面を向いての勉強会にもだいぶ慣れた今日この頃。昨日借りてきた参考文献を片手にペンを走らせていた檻舘が、徐に口を開いた。

「昨日、私を置いてきぼりにしてあれだけ啖呵を切っていたものですから」

「それは昨日のうちに謝っただろ…」

「別に怒ってはいませんわ」

そう言って顔を上げた檻舘の顔は、見慣れた微笑みを浮かべている。彼女の言う通り、怒っているようには見えない。が、彼女のデフォルトとも言えるそのアルカイックスマイルは、元々彼女の真意を上手い具合に隠していると常々思っていて、彼女が何を考えているのか、俺にはわからないことがままある。

「単純な興味です」

昨日の放課後。ヒーロー科の教室の前で巻き起こっていた混雑に乗じて彼らに喧嘩を売った俺のことを、彼女はしっかりと見ていたらしい。先に図書室に行ってるものだとばかり思っていたのだが、その考えは甘かった。あんな悪役じみたところを見られてしまったのは、自分としては少々、いやかなり恥ずかしいものがあった。

「…策なんてないよ」

これは、本当。別に策なんてものはないが、しかし入試の時のような無機物相手でない限り、個性バレしていない無名の状態の自分であればそこそこやれるという自負はあった。

「あら強気」

「良くも悪くも初見殺しだから、俺の個性」

「ふうん」

彼女は含みのある相槌をひとつして、けれどもそれ以上の言葉を発することはなく、再び参考文献を書き写す作業に戻った。結局何が言いたかったんだと突っ込みたかったが、これ以上この話題を広げる必要もないと判断した俺も、それ以上の追及はやめた。



−−−ことが動いたのは、次の日の朝だった。

「心操君。私に個性、かけてみませんか」

「は?」

唐突な彼女の発言に、俺はまず自分の耳を疑った。反射的に聞き返せば、彼女はにっこりと笑って、その可憐な声でもう一度、「私に個性、かけてみませんか」と、今度は一字一句を区切るようにしっかりと言葉を発した。

「練習もなしに本番を迎えるのは些か不安ではありませんか?どうです、私を練習台にするというのは」

爽やかな笑顔でとんでもない爆弾を落とした彼女に、俺は思わず持っていた参考文献を床に落とした。いやだって、おかしいだろ。今日も今日とていつも通り、俺は古典、檻舘は英語と、各々が朝の自習に勤しんでいる最中だったのに、それが、そんな急に、何の脈絡もなく。一体何を言いだすんだ彼女は。

「…俺の個性、本当にわかってる?」

「前にもしましたわよね、このやりとり。"洗脳"でしょう」

「洗脳って言葉の意味知ってる?」

「馬鹿にしてます?」

涼しい顔でそう宣う檻舘に軽く目眩を覚える。彼女は時折、とんでもないことを言い出すから本当に手に負えない。

「…操られることに、抵抗とか、怖いとかないわけ?」

深い溜息を吐いて、俺は彼女に問う。これは別に卑屈になっているとか皮肉とかではなくて、ただただ純粋な疑問だった。檻舘は、俺の個性を一体どう思っているのだろう。

「うーん、まあ"洗脳"という言葉のインパクトはありますけど」

その形の良い顎に人差し指を当て、呑気に考え込むような仕草をする檻舘。そのやけに芝居掛かった陳腐な動作でさえ嫌味にならないのだから、彼女はつくづく見目好いと、俺はぼんやり頭の隅で考えた。

「入学して数週間経って、心操君とそれなりにご一緒させていただきましたけど、特に意識が乗っ取られたりとか身体を操られるという出来事はありませんでしたし、個性が無闇矢鱈に発動したりすることはないのでしょう?」

「それは、まあ…そうだけど」

「発動条件が心操君の意のままなのであれば、さして心配は致しませんわ。だって、心操君がその個性を悪用しようとする筈ありませんもの」

事もなげにそう言い放った檻舘と視線が合う。疚しいことなど一つもないと言わんばかりの堂々とした眼差しが、俺を射抜いた。

「私、人を見る目には自信ありますの」

「………ッ」

「というより、これだけ日頃からストイックにヒーローを志している心操君の姿を見てしまったら、そんな馬鹿なことを考えるなんて出来ませんわ」

ふふふ、と上品な笑みを零す檻舘に、俺は耐えきれず視線を下げた。嗚呼、なんてむず痒い。彼女はいつだって簡単に、さらりとそれらを言ってのけるからタチが悪い。この人誑しめ、と俺は心の中でこっそりと毒づいた。

「あとは、純粋な興味ですね。洗脳される経験なんて滅多にありませんから、どうなるのか気になります」

「…そっちが本音だろ」

「あらそんな、心操君のお役に立ちたいという気持ちに嘘偽りはありませんわ」

嗚呼もう、これは完全に遊ばれている。到底同い年とは思えない檻舘のこの余裕は一体どこから来るのだろうか。俺が彼女に敵うことなんてきっと天地がひっくり返ったとしてもないのだと確信してしまう程に、彼女と俺の精神年齢には明確な差があるように感じた。全く、悔しいことこの上ない。

「…そんなに言うなら、本当にかけるけど」

「ええ、是非とも」

即答する檻舘。いつでもどうぞ、と言わんばかりに目を瞑って待ち始めた彼女を前にして、俺はごくりと生唾を呑んだ。

…彼女の言う通り、個性を悪用するつもりなんてこれっぽっちもない。それは神に誓って断言できる。しかしだからといって、異性と二人きりのこの場でここまで無防備になるか普通。

「心操君、まだですの?」

「(…警戒心が無いにもほどがあるだろ)」

肝が据わっているのか、それとも単に俺が異性として認識されていないのか…恐らく答えは後者だろう。信頼されているといえば聞こえが良いが、なんというか、複雑だ。

「…ハァ」

俺は本日何度目かわからない溜息をひとつ吐いて、彼女の形の良い額に向かって軽く中指を弾いた。俗に言うデコピンだ。

「いたっ」

「するわけないでしょ、なに本気にしてるの」

「まあ残念」

名案だと思いましたのに…なんて懲りずに呟きながら、おでこを摩り不満げな表情を隠さない檻舘。少しばかり赤くなったそれに若干の申し訳なさは感じるも、こればかりは彼女の自業自得だろう。俺は咳払いを一つして、彼女に忠告する。

「…あと、あんまそういうこと、むやみにしない方がいいと思う」

「そういうこと?」

きょとん、とした表情で首を傾げる彼女の様子を見るに、本当にわかってないらしい。聡いのか鈍いのか…。

「いや、だから…そういう無防備な感じは、人によっては勘違いする奴とかも出てくるっていうか…」

指摘したは良いものの、どう伝えるべきか言葉が出てこなくて、ついしどろもどろな回答になってしまう。途中で、これではまるで自分が彼女をそう意識していると告白しているようなものではないかと気付いて、羞恥のあまり顔に熱が集まるのがわかった。耐え切れず口元を掌で覆い、彼女を盗み見る。どうせ彼女のことだから、何時もの澄ました顔でいるんだろうなと恨めしく思っていたのに、意外にも彼女の表情は俺が予想していたものとは全く違っていて。

「…檻舘?」

かあああ、っと一気に熱を帯びた彼女の頬。一瞬にしてその形の良い小さな耳まで真っ赤に染まった檻舘の様子に呆気に取られた俺は、顔を覆うのも忘れて彼女を凝視した。

「そ、そうですわね、以後気をつけます…」

消え入りそうな声でそう言って、ふいっと顔を背ける檻舘。それは、いつも大人びた雰囲気を醸し出している彼女にしては珍しい、歳相応の表情だった。

「わ、私、飲み物を買ってきます」

居た堪れなくなったのか、彼女が席を立った。飲み物が口実であることくらい、俺にでもわかる。バタバタと、これまた珍しく慌ただしい様子で教室を出て行った彼女の後ろ姿を目で追いながら、俺は一人で頭を抱えた。自分で蒔いた種とはいえ、この展開は正直予想していなかった。

「…こんなの反則だろ…」

俺は、選択を間違えたのかもしれない。

檻舘の頬を彩った桃色が脳裏にちらついて、心が騒つく。これから一体どんな顔をして彼女と接したら良いのか、お願いだから誰か教えてほしい。

「ああ……」

誰もいない教室の真ん中で、俺は天を仰いだ。



12 ドラジェ・ピンクのまぼろし


幸か不幸か、俺の心配は杞憂だったようで。戻ってきた檻舘は平常通りの様子で、何事もなかったかのような澄ました表情に戻っていた。流石檻舘、ありがとうと感謝するべきなのか、はたまた残念がるべきなのか。経験値の低い俺には皆目見当がつかない。

…結局のところ、俺はいつだって、彼女に翻弄させられてばかりだ。


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