01 君はふしぎ


「おはようございます、心操君」

朝の静かな教室に凛と響く、澄み透る高い声。登校にしては随分と早いこの時間。ぼんやりと活字を目で追っていた心操人使は、予想外の出来事に内心慌てつつ、けれども決してその様子を悟られないよう、ゆっくりとその声の方向へ顔を向けた。

「…おはよう、えっと…」

視線の先にいたのは、きっちり器用に結い上げた髪型が印象的な、小柄な女子生徒であった。
顔を見たことはある。当然だ、何故ならば彼女は心操のクラスメイトである。しかし名前が出てこない。そんな心操の心中を察してか、女子生徒は柔和な表情でこう答えた。

「檻舘ですわ、檻舘ヨル」

「ごめん。おはよう、檻舘」

「構いません、まだ2日目ですから」

嫌な顔一つせずそう微笑んだ女子生徒…檻舘ヨルは、心操の席の横を通り、そのまま左斜め前の席に鞄を置いた。椅子を引き、そして座る。たったそれだけの単純な動作であるが、少女の所作のひとつひとつから、その育ちの良さと人間性が垣間見えた。失礼な言い方かもしれないが、見た目の割に、随分と大人びた女子だな…というのが、心操の彼女に対する第一印象であった。

「心操君は、いつもこんなに朝が早いんですの?」

鞄の中身を整理しながら、檻舘はそう心操に尋ねた。質問は至って平凡。しかし少女のあまりに丁寧過ぎる物言いに、心操はほんの少しの居心地の悪さを感じた。それは単に「これまでの人生においてあまり聞き馴染みのなかった言葉遣い」という物理的な違和感とは別に、「天下の雄英高校に集まってくる生徒」に対する過剰な猜疑心の表れとも言えた。無論それは心操の思い込みにしか過ぎず、数十分後には檻舘こそが少数派であるという事実が判明するのだが、このような些細なやりとりに神経を使ってしまう程度には、心操にとって「選ばれし雄英」というブランドイメージは心に根深く定着し過ぎていた。

「……………」

右手に握っていたシャープペンシルが、ギチ、と小さく軋む。

「心操君?」

名前を呼ばれ我に返る。心操は取り繕うようにひとつ咳払いをし、口を開いた。

「…ああ、まあ。電車が混むのが嫌で」

なんて面白みのない、差し障りのない回答だろうか。しかし嘘は言っていない。満員電車が嫌いなのは本当であるし、混まずに乗れるのであればそれに越したことはない。しかし心操の本意は別にあった。それを言わないのは、単純な気恥ずかしさと、自己のプライド故である。

「檻舘も早いね、習慣?」

今度は心操が聞き返す番であった。一種の社交辞令である。すると、檻舘は想定の範囲内だと言わんばかりの落ち着きと優雅さで振り返り、そのまま心操の方向に向けて座り直した。

交錯する、視線。

「…檻舘?」

まさかこんなにしっかり向かい合うことになろうとは、と心操は少し狼狽えた。対し、檻舘の視線は真っ直ぐに心操の瞳を捉えて離さない。

「今日は偶々、少し用件があったので早目に家を出ただけで…本来はもう少し遅い時間に登校するつもりでしたの」

正面から心操を見据える檻舘の瞳は、不思議な引力と煌めきを纏っていた。見惚れる…ではあらぬ誤解を招きそうだが、窓から差し込む陽の光も相俟って、陳腐な表現ではあるが、宝石のようだと心操は思った。

「でも」

付け加えられた接続詞。檻舘の口元には人当たりの良さそうな笑みが浮かんでいる。

「心操君がこんなに朝早くからいらっしゃるのなら、早起きするのも悪くないかもしれません」

「は…」

思わず口から言葉が漏れ、シャープペンシルがポロリと落ちた。予想だにしていなかった回答を受けた心操の頭は、瞬く間に思考することを放棄した。

「あら」

床に転がったシャープペンシルを、恭しい動作で檻舘が拾う。その動きに対応できない程に、衝撃を受けた心操の意識は遥か彼方に飛んでいってしまっていた。

「どうぞ」

「…ありがと」

目の前に差し出されたシャープペンシルを見て、ようやく意識を取り戻す。

「…今の発言は、どういう意味なわけ」

なんとか捻り出した言葉。檻舘の表情は変わらない。アルカイック・スマイルとでも言うべきか、穏やかな口元の微笑みに対し、その瞳から感情を読み取るのは酷く困難だ。

「言葉通りの意味です」

「…俺のことからかってる?」

「いえそんな、本心ですわ」

涼しい顔を崩さない檻舘。周りからよく感情が表に出ないと言われがちな心操も、これには思わず頭を抱えてしまった。

「ところでおひとつ、心操君にご相談があるのですけれど」

そんな心操の気持ちを知ってか知らずか、クラスメイトの困り果てる様子をひとしきり眺めて満足したのか、はたまた本当に天然記念物並みの純真無垢な思考回路の持ち主であったのか…檻舘は目の前の心操のことなど気にも留めずマイペースに会話を続けてくる。

「…なに」

「私も明日から、心操君と一緒に勉強してもよろしいですか」

そう言われ、心操は反射的に机上のノートを手で覆おうとした。が、そのあからさま過ぎる行動に気付き、思い留まる。彼女が気付いていないことを期待していたが、そう甘くはなかったなと、心操は苦虫を噛み潰したような顔で言葉を返した。

「別にこれは、たまたま暇だったからで…」

嘘だ。実際は、これこそが早起きの目的である。しかし心操は繕った。ガリ勉なんて印象をクラスメイトに持たれるのは避けたかったのだ。しかし、檻舘は揺るがない。何もかもを見透かしているかのような瞳で、心操の瞳を真っ直ぐ射抜いてくる。

「私、天下の雄英高校の授業についていけるか不安ですの」

その言葉は、恐らく嘘だろうと、ほぼほぼ初対面の心操にでさえ理解できる程に白々しかった。

「…別に、俺の許可なんて要らないよね」

「ですが、嫌がっているのに私が無理矢理付き纏った結果、心操君が教室での勉強をやめる…なんてことは避けたいですし」

「……………」

「私、"心操君と一緒に"勉強がしたいのです」

彼女は一体何なんだ?と心操は心の底から疑問を持った。ほぼ初対面の人間に対し、ここまでストレートに好意的な感情をぶつける理由がわからない。マイナスな感情を向けられるのは勿論面白くはないが、出処不明の好意というのも気味が悪い。しかし明確な悪意であると断言できない以上、出会って2日のクラスメイトの申し出に対し、心操が言える返事は一つしか用意されていない。

「…勝手にすれば」

もとより、教室で自主勉強するという意思を阻害していい権利なんて誰も持ち合わせていないのだから、こう言う他ないだろう。拒否したら何様だという話になる。得体の知れないクラスメイトとはいえ、最初から望んで険悪な関係にはなりたくない。

あくまで消極的な許可を心操は出した。物言いからそれは相手にも十分伝わっているだろうと思っていたのだが、檻舘は違った。

「嬉しい!やはり早起きは三文の徳というのは本当ですのね」

それは、花の蕾が綻ぶような笑顔だった。檻舘の言動原理が見出せず訝しんでいた心操も、その表情には思わず目を奪われた。再び手から落ちそうになったシャープペンシルは、既の所で握り直したが、心操の意識は完全に少女の笑顔に持ってかれていた。

「私、心操君のこととても気になっておりましたの」

「…何それ」

「改めて、これから宜しくお願いしますね。心操君」

言いたいことは全て言い切った、とでも言いたげな様子で、檻舘は心操にくるりと背を向け、本来の位置に身体を戻した。対し、ようやく少女の真っ直ぐな瞳から解放された心操は、無意識に撫で下ろした肩から、自分がいかに緊張していたかを理解した。と同時に、今までのやり取りを脳内で反芻し、檻舘の言葉に今更ながら顔が火照るのを感じた。咄嗟に片手で顔を覆うが、掌に感じる熱は明らかに平常時より高い。

「(謎すぎる……)」

不思議な女子だと、そう心操は思った。恨めし気に檻舘の複雑に編み込まれた後頭部をじっと睨みつけるが、心操の気持ちなどお構いなしなのか、結局クラスメイトが一人二人と登校してくるまでの間、彼女がこちらを振り返ることはなかった。



01 君はふしぎ


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