狡い女
私はとても狡い女だ。
否、狡いというよりも狡猾と表現した方が正しいのかもしれない。私は悪賢く、それでいて面の皮の厚い女だった。でなければ、今の様な救いのない状況には陥るはずがない。
「…靖友くん、覚えてないの?」
始まりは、ひとつの嘘。それも偶々、条件が揃ってしまっただけ。乱雑なアパートの一室、酔い潰れてベッドに横たわる、思い焦がれる彼の姿。
「……………」
どうせ叶わない恋だった。心の臓の奥深くに溜め続けた、隠し続けるはずだった私の仄暗く鬱屈とした想い。しかし彼の余りにも無防備な寝顔は、多少なりと酔っていた私の理性を瓦解させるには十分過ぎるほどの破壊力であった。瞬間、自分の中から湧き上がる悪魔の囁き。
−−−−−もしかしたら今なら、
最早迷いはなかった。私は自分で服を脱ぎ、彼が寝るベッドに手を掛けた。沈むマットレスも軋むスプリングの音にも、彼は身じろぎひとつしない。彼に擦り寄る。衣服を剥ぎ取られ外気に晒された私の身体は冷たいのに反し、彼の身体は驚くほどに暖かい。首筋に顔を近付ける。汗に混じり、うっすらと香る彼の香水の匂いにどうしようもなく欲情する。体温を求めて、私は彼の衣服に手を掛ける。ああ、もっと、もっとほしい。
結局のところ私は、荒北靖友という人間がどうしようもなく欲しかっただけなのだ。
「おはよ、やすともくん」
朝日が昇り、頭痛に魘されながら目を開ける彼の瞳に映った私は、自分でも驚くほどに強かな女の顔をしていた。
*****
それからというものの、私と彼は度々身体を重ねる関係になった。あの朝、私に虚偽の記憶を植え付けられた彼は、否定も肯定も、好きも嫌いも言わなかった。ただ「そうか」と納得し、「ごめん」と謝罪の言葉を口にしただけだった。
彼は元々とても忙しい人だ。講義、実験、課題、サークル、バイトと日々を奔走している。学部もサークルもバイトも違う私とは、どちらかが合わせようとしない限り生活サイクルが被ることはない。けれど稀にそのサイクルが被ったとき、私と彼は無意味に身体を重ねた。
「……………」
彼が私のことをどう思っているのかはわからないし、正直聞きたくもなかった。
ピロートークなんてものはあった試しがない。私も彼も、現実から目を背けるかの様に行為後はすぐに寝てしまっていたし、朝は朝で、サークルの練習がある彼は私より早く起きて私より早く家を出てしまう。
「…やすともくん」
私の掠れた声は、家主の居ない部屋の空気に溶けて消える。誰にも届くことなく、消えて無くなる。
彼の残り香と冷たくなったシーツは、私の心を満たすと同時に絶望させる。思い焦がれていた彼の生活の一部に組み込めた喜びと、一生陽の目を見ない恋心への弔い。でもそれを望んだのは他でもない私だった。どんな形であれ、私は彼の心に爪痕を遺したかった。
泣いたら負けだと思った。それでも身体を重ねる回数が増えるにつれ、涙腺は徐々に緩くなった。泣きそうになる度自分の心に、私は今幸せだと思い込ませた。幸せって何だっけと懐疑する理性的な自分には蓋をした。私は狡い女だから、だから大丈夫なのだ。
「…やすともくん、好きだよ」
私は今、とても幸せだ。それが例え、誰も望まぬ歪んだ関係であったとしても。
【狡い女】
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