吐きたい
吐くと、心も身体もスッキリするから好きだ。でも同時に、便器に飛び散る吐瀉物の汚さと、トイレで涎まみれで蹲ってる自分の醜さに嫌でも気付いてしまって、その事実にまた心が沈む。なんて滑稽なんだと勝手に病んで、もう中身のない胃を再度収縮させて粘ついた唾液を吐く。その繰り返し、最近お決まりのルーティン。
イガイガする喉を数回鳴らし、私は涎まみれになった顔をティシュペーパーで乱暴に拭って、そのまま便器の掃除を始めた。物が多くて乱雑な私の部屋の中で唯一いつもピカピカなトイレは、別に数年前に流行った神様を信仰しているわけではなく、ただ単純に、己の汚さを隠蔽したいからに他ならない。(…まあ、人一倍鼻が効く彼は、この胃酸臭さはとうの昔にお見通しなのかもしれないが。)私は今日も、自分の行いを清算すべく便器を磨く。私は大丈夫、まだ普通だと言い聞かせる為に。
「よくこんなゴミみたいな書類出せるね」
「仕事なめてる?」
職場の空気がどんなに最悪でも、たとえ罵られても、投げられた書類を笑顔で拾って、愛想を振りまいていれば、直接的な攻撃の対象になることはない。ただただ上司の機嫌を損ねないよう媚を売れば良い。そうすれば、私は今日もこの閉鎖的なクソ社会を生き延びることができる。胸に巣食うタールの様な感情は、こっそり昼休みに便器に吐いて捨てて仕舞えば良い。そうして仕舞えばリセットされる。昼食のカロリーも、苛々も、殺意も、なにもかも。
「ダイエットとか考えないの?」
「お笑い芸人の○○に似てない?」
容姿の弄りも、笑って受け流せばいい。貯めて、ためて、全部水に流せばそれで何とかなる。そういえば昔靖友くんもよく私に、やれ豚だの、デブだのブスだの言っていた。最近はめっきり言ってくれなくなった。単に彼が大人になったのか、それとも私を気遣っているのか…その真意はわからないけど、靖友くんの声で上書きしてくれればそれほど幸せなことはないのに、と私は密かに思う。今も私の頭の中では、チビでハゲでオマケにニキビ面をした先輩の下卑た笑い声が永遠に木霊している。嗚呼、ほんと死ね。
仕事場から帰ってきて、道中で半ば無意識に買ってきたコンビニ弁当を2.3個平らげて、ポテチとケーキをろくに咀嚼せず追加で押し込む。この行為に感情はない。半ば義務と化したもので、空腹だろうと無かろうと関係ないのだ。最後に炭酸を呷って、私は無理矢理トイレに駆け込む。吐瀉物が鼻に入って、痛みで涙が出た。
「うっ…」
ほんと、馬鹿みたい。なんで私がこんなに惨めに生きなきゃいけないのか。助けてよ、そう言いたいのに、いつもその5文字が言えない。靖友くんの前ではせめて、奔放で明るくて可愛い私でいたい。ほんと馬鹿だよね、私。自分でもわかってる。
そうして今日も便器を磨く。あ、これさっき食べたパスタだ。一番最初食べた牛丼が出てきてるからこの分だと全部出せてるな、良かった良かった…なんて平然と考えてる自分の異常性には気付かない振りをする。大丈夫、私はまだ普通。
鼻にこびり付いた酸っぱさが取れなくて、私は今日も香水を身体に纏う。靖友くんが香水嫌いなことは知ってるけれど、吐瀉物の匂いよりバニラの香りのほうが何百倍も"わたし"らしいでしょ。だから私は今日も過剰にプラダのブドワールを振り撒く。たとえ靖友くんに香水臭いと罵られようとも、私はいつだって甘いバニラの香る女でいたいのだ。それが、残された私のちっぽけなプライド。
「おかえり靖友くん!お腹すいたからどっか食べに行こ!」
「仕事帰りなのに相変わらず元気だねェ…」
そう言った靖友くんの視線がトイレとゴミ箱に移ったこと、私気付いてるよ。でも靖友くんは優しいから、私が自分の口で言うまで気付かないふりをしてくれるんだよね。うん、知ってる。私の右手の吐きダコを撫でるその手つきが柄にもなく優しいことも知ってる。だから、好き。
靖友くんの隣で笑っていたい。そのために私は、今日も嘔吐きながら全てを水に流している。うん、だからまだ、大丈夫。