壊 火 息 固


「死って、何なのでしょう」
誰もいない朝の教室。窓の外、より遙かずっと遠くの虚空を見つめる檻舘のその横顔があまりに端正で、あまりに微動だにしないものだから、俺は彼女が精巧に造られた彫刻にでもなってしまったのかと不安になった。彼女が確かにそこに息づいていることを確かめたくて、俺は一言その名を呼ぶ。すると彼女は此方を一瞥することなく、ぼんやりと冒頭の言葉を吐いたのだった。
…死とは何か、とはこれまた随分と大層な題目だ。彼女は確かに頭が良いが、極めてロジカルな思考回路の持ち主だと認識しているし、事実彼女は立派なリアリストであり合理主義者だ。結論が出そうにない題目に対し空想に耽るというのは、彼女にしてはひどく珍しい行為だと言わざるを得ない。
「えっと、心臓が止まること、とか」
苦し紛れに俺は答えた。これはもしや、脳死を死と捉えるかどうかとか、そういう医学的な議論なのだろうか。しかし檻舘の表情は一向に晴れない。彼女はもっと抽象的な、概念的な答えを欲しているように見えた。
「死者の復活を望む者にとって、身体を火に焚べて肉体を破壊する行為は禁忌と聞きます。肉体が無ければ生き返ることは叶わないから。彼らにとって死は一時的なもので、あくまで最期の審判までの休息だと」
そういえば、欧米などでは土葬が主流だと聞いたことがある。しかし宗教に疎い自分ではそれ以上の回答は出そうにもない。俺は静かに檻舘の次の言葉を待った。
「死者の復活なんて、そんなものあるわけはないのです。呼吸が止まって、心臓が停止して、瞳孔が開き切ってしまえば、後の肉体は腐敗していく他ないと、理解はしているのです」
そこまで聞いたところで、彼女の藍玉のような大きな瞳から一筋、真珠玉のような滴が溢れたのが見えた。その瞬間、俺の身体はぴくりと固まる。見てはいけないものを見てしまったという罪悪感が、心を覆った。
「でも、骨になった姿を見て、そこで初めて彼が死んだと、その現実を突き付けれられた気がしたんです」
ぽたり、と真珠玉が彼女の制服のスカートに落ちる。彼女はその涙を拭おうとはしない。涙が溢れていることにすら気付いていないようだった。
「せめて、せめて肉体があれば、彼は戻ってきてくれたのではないかと、今でもそう思わざるを得ないのです」
二粒目、三粒目が落ち、四粒目が生まれる瞬間、俺は固まっていた筋肉をようやく動かして、指で彼女の頬からその滴を掬った。ハッとした表情で、檻舘が此方を見る。初めて彼女と目が合った。
「…心操君、どうして」
「おはよ。俺がいるって、気付いてなかった?」
どうやらこれまでの発言は完全に彼女の自問自答だったらしい。彼女は俺を認識したからか、いつもの正気を取り戻したようだった。
「すみません、私ったら、こんな姿」
彼女は慌てて目を擦る。俺は、その指を咄嗟に掴んだ。
「擦ると腫れるよ」
「………すみません」
彼女は大人しくその行為を止め、そして項垂れた。元々華奢で小さい彼女の身体は、今にも消えてしまいそうだった。
「…それは、昨日休んだことと、関係あるの」
昨日、彼女は学校を休んだ。家事都合、としか教師も説明していなかったし、元々家の会社の都合で休むことも多かったからさして気にしてはいなかったのだが…この様子から察するに、多分、明るい話題ではないのだろう。
「言いたくないなら、言わなくていいけど」
「いえ…知人…お世話になった方が、先日亡くなりまして」
ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ彼女の手は僅かに震えている。俺は、ギュッと彼女の細い指を握った。
「危険な職業だということは重々承知してましたし、棺に横たわって冷たくなっている彼を見た時も、その満足げな表情をみて、嗚呼、きっと彼は後悔せずに生涯を終えられたのだな、と思ったのです」
「うん」
「…でも、骨だけになった彼を見た瞬間、骨上げをした瞬間、彼が本当にいなくなってしまったことが嫌でもわかってしまって」
今更嘆いたって、どうしようもないことだとわかってはいるんですけど、と檻舘は笑った。いつも通りの綺麗な笑みを浮かべる彼女は、本当にどうしようもなく理性的で、だからこそ痛々しい。
「…悲しい感情を、無理に押し殺す必要はないと思うよ」
俺はポケットからハンカチを取り出し、檻舘に差し出した。使う前で良かった。彼女の芸術品のような長い睫毛に揺れる水滴を拭うのに、皺皺のハンカチでは格好がつかない。
「…檻舘はさ、俺が死んだら悲しい?」
「そんなの……当たり前じゃないですか」
語気を強めて彼女は言う。
「じゃあさ、俺がもし死んだら、俺の身体は檻舘の好きにしていいよ。防腐処理して気の済むまで部屋に飾ってもらっていいし、肉なり焼くなり食べるなり好きにしたらいい」
中々ハンカチを受け取らない檻舘に痺れを切らした俺は、出来る限り優しく彼女の瞳にハンカチを当てがった。じわりと滲み、濃い水玉模様が浮かび上がる。
「でも、月日が経って、もし檻舘の気持ちの整理がついたら、その時は俺の身体を燃やしてよ」
「…心操、くん」
「俺は生きてる檻舘を束縛したくはないし、檻舘には前を向いて現実を生きてもらいたいから。葬式も、多分そういうものなんじゃないかな。区切りをつける為の、さ」
ここまで話した所で、彼女の瞳から洪水のように涙が溢れ出ていることに気付いた。しまった、言葉を間違えたか。
「ごめん、泣かせるつもりはなかったんだけど」
「違うんです、ごめんなさい」
堰を切ったように泣き出す檻舘の背中を摩る。掌から伝わるその温度に、先程までのガラス細工のような危うさの彼女が、きちんと生きていたことを実感する。彼女に握られたハンカチは、もう随分と色が変わってしまったようだ。静かに涙を流し、時折鼻を啜る彼女を、ただ黙って俺は見ていることしか出来ない。それでも、ここに居るということは伝えたくて、俺は彼女の小さな背中を摩り続けた。
「…落ち着いた?」
「ええ、ありがとうございました」
タイミングを見計らって声を掛ける。彼女の瞳はまだ潤んでいたし、目元は痛々しいほどに真っ赤に染まっていたが、いくらか落ち着いたようであった。安堵する一方、こんな時だというのに、これだけ彼女が偲び悲しむ相手は一体誰なのだろうと、一種の浅ましい羨望を覚えたのは、内緒だ。
「先程の言葉、まるでプロポーズみたいでしたわね」
「いや、違、それは…」
自分でもそう思ったが、改めて指摘されると恥ずかしかった。でも、言ったことに嘘偽りはない。
「一方だけではフェアではないですものね。私の遺体も、心操君の好きにしていただいて構いませんわ。どうぞ某革命家の如くエンバーミングして下さいな」
彼女が笑う。先程までの表情と比べると、大分自然な笑みだった。
「そんなの、」
(そんなの、多分一生飾るしかできないよ)とは、口が裂けても言えなかった。