09.わたしを継子にしてください。
強く気配のする方へと全速力で駆けるその速さは、一般人の目には留まらないだろう。
村周辺を囲う森から見渡すも、感じる気配が強まったり弱まったりしていた。実弥はハルのいる家屋の方へと視線を向けるも、また足を動かし森を駆け回った。
この任務が実弥の元へ降りてきた時、実弥の相手はハルより階級が上の女隊士だった。それでも夫婦として偽装するとなれば、見知らぬ隊士相手は気が進まなかった。偽りでもなんでも、ハルが良かった。実弥にとってその相手はハル以外考えられなかったのだ。
ハルが熱を出したあの件でもう実弥の心は決まっていた。もう、隠しようがなかった。自分の心には常にハルがいる事に。
だが任務とはいえ、四六時中ハルと時間を共にすることは実弥にとって予想を超える忍耐を要した。勿論鬼を探ることが目的で夜を見回っていたが、ハルの柔らかな身体を知ってしまった実弥には煩悩なく静かに隣で寝ることなど出来るはずがなかった。
――この任務が無事に成功したら、わたしを継子にしてください。
ハルの笑顔と言葉が脳裏で木霊する。
この任務が無事に終わったら、自分の言葉で伝えるべき事を伝える。そうでなければ、ずっとハルを縛りつけることになる。継子という言葉に。
「鬼出現! ハルガ鬼ト対峙! 急ゲ!」
実弥の鴉が遠くから叫んでいる。鴉が飛んできた方向へと瞬足で駆けた。心臓が大きく揺れ動き、言い表せない焦燥感が実弥を襲った。
* * *
日輪刀を構える手がこれ程震えたことは無い。
初めての任務では、恐怖で全身が震えた。だがこれは怒りと苛立ちからくるもので、恐怖よりも震えが強くなるのだと、ハルは身をもって感じていた。
今ハルを取り巻いているのは、完全なる闇だった。鬼の気配を微かに感じそれを探っていた最中、突然その気配が強くなったかと思えば、瞬きする間もなく視界が変わり闇に引きずり込まれていたのだ。
「さっさと姿を見せなさい! 卑怯者っ!」
ハルの声に奇妙な笑い声が木霊するように響き、空気ごと切り裂くような目に見えない斬撃が飛び交う。
それを感覚で避けるも、避けきれない攻撃によりハルの着物は破れ身体は傷だらけだった。
「フフフ、まさか鬼狩りだったとは。怯えた顔が好きだったがその目もなかなかいい」
「黙れっ! お前なんかわたしが八つ裂きにしてやる! 実弥さんとの時間を邪魔しやがって」
「耳障りなのは好かん」
突然、何かが下から突き上げてハルの身体を浮かせた。背中を押し上げる圧から逃れようと身体を動かそうとするも、身体全部を掴まれているのかピクリとも動かなかった。
それが首に巻きついた感覚がし、途端に喉を締め付けられる。斬撃だと思っていた鬼が違う攻撃を仕掛けてくるなど考えていなかった。
叫ぼうにも実弥の名前を呼ぼうにも声が出ない。押さえられている足を無理やり動かしたら、恐らく折れたのだろう。鈍い音が聞こえ激痛が走った。その呻き声さえも声にならない。
「ぐっ……っ、」
こんな所で死ぬ訳にはいかない。ハルを突き動かすのは願いだった。
鬼を仕留めて実弥の継子になるのだという願い。実弥のそばにいたいという願い。偽装夫婦で体験したような静かで平和な暮らしをしたいという願い。
ハルは奥歯を噛み締めると目を閉じて呼吸を整え、その願いを脳裏に浮かべながら日輪刀の柄を握りしめた。
――風の呼吸伍ノ型 木枯らし
身体の周りを渦のように風が纏う。身体を圧迫していた何かから解放され、空中に浮いていた身体がそのまま地面へと落下する。
その衝撃が全身に伝わり痛みが走る。呼吸も出来ないくらいの苦しさだったが、ハルは呼吸の型を止めなかった。鬼が攻撃してくると分かっていたからだ。
――風の呼吸参ノ型
渦のような風が鬼からの攻撃を防御する。もう斬撃なのか打撃なのかも分からない。ただ、遠のきそうになる意識の中、できるすべての力を振り絞った。
鬼の呻き声が聞こえ、微かに姿が見えた。それも滲む視界でぼやけてしまう。やっと尻尾を掴んだ。だが振り上げた刀がハルの手のひらから零れ落ちる。もう限界なんてとうに超えていたのだ。
「諦めんじゃねェ! 耐えろっ!」
突然目の前に現れた背中。目には見えない殺を背負うその背中に、ハルの目尻から一粒の涙が零れ落ちた。
――風の呼吸肆ノ型
実弥から放たれた風の呼吸。風が砂粒のように舞い上がり無数の斬撃が放たれる。まるでハルを守るような斬撃だった。
その攻撃が鬼の急所に当たり、耳を
「おい、しっかりしろォ! 大丈夫だ、すぐに隠が来る! 呼吸で止血しろォ! ハルっ、ハル… 」
「…実弥さ、ん」
「喋んじゃねェ! クソ、止まれよクソがァ…」
「わたしは死なない…だからっ……継子に、して…」
血がついたハルの頬に触れる実弥。閉じてしまう視界の中、何かを叫びながら額を合わせる実弥に触れたくて伸ばした手がどうなったのか分からないまま、ハルは意識を手放した。