好きになるということ
彼との食事を終えて駅までの道を歩く。前方から来た集団を避けた拍子に彼の腕に身体がぶつかり、謝ろうとした刹那、掌に温もりを感じた。
驚いて顔を上げると、照れを隠しきれていない彼と視線が絡む。手慣れてるなんて思わなかった。きっと彼も勇気を出しているのかもしれない。そう思うと、この
「では、ここで…今日はご馳走様でした」
「ハルさん。俺とまた会ってくれるだろうか。もう分かっているかもしれないが、俺はもう貴女が好きだ。付き合って欲しいと思っている。まだ出会って間もないが、この感情に嘘はつけない」
「煉獄さん……」
「返事は次回で構わない。俺はハルさんをもっと知りたい」
ずっと心地よく脈打っていた心音が、彼の言葉と視線と熱に騒がしくなっていく。口を開けば今すぐにでも返事をしてしまいそうだった。
次回でいい、そう言われて、恐らく彼なりに私の気持ちを尊重してくれているのかなと思った。この急な展開に困惑する私が目に映ったのかもしれない。
正直嬉しい。嬉しすぎる展開だ。それでもまだ飛び込む勇気がでない。暫く恋愛しない間に、自分の気持ちを伝えるのにどれ程の勇気がいるのか忘れていた。
私は彼の配慮に甘え頷くと、せめて今の気持ちが伝わればいいと繋がっている手を両手で握り返した。安堵と照れが混ざった彼の微笑みに、胸がキュンと音を立てた。
◇
彼の告白から二日程経った。その間、私の脳内では常に彼のことで頭がいっぱいだった。仕事はもちろん手を抜くことはしていないが、どうにも集中が出来なかった。
こんな事は初めてだった。もう返事を先延ばしにする意味は全く無かった。年齢だの時間だの、散々繰り返していた言い訳も、もう霞んで消えてしまっている。
今夜空いてるだろうか。オフィスビルの一階に入っているカフェで休憩がてらスマホを眺めていた。文字を打ち込んでは消し、打ち込んでは消し。それを数回繰り返した所でカフェの入口から、「煉獄先輩っ! どれにしますかぁ?」と何とも甘ったるい声が耳に届いた。
顔を上げたのは声が甘ったるかったからではない。その言葉に彼の名前があったからだ。
「うむ、俺はブラックでいい。あとは…」
メニューを見ていた視線が急に私に向いて、驚きと焦りで胸が大きく跳ねた。見てはいけないものを見てしまったかのような妙な冷や汗が出る。
私を捉えて目を見開いた煉獄さんに、隣にいた女がどうしたのかと彼の腕に手を添えた。その途端に身体中の水分がすべて沸騰したのかと思うくらい熱くなり、同時に黒いものが渦巻いて全身を駆け巡っていくような感覚になった。
何かを考える前に私の身体は動いていた。スマホを手に取るとすぐに席を立ち店を出た。彼の横を通り過ぎる時、「ハルさん!」と名前を呼ばれたけど無視して床から視線を外すことなく早歩きでエレベーターに乗り込んだ。
異常に上がる心拍数は息を荒らげる。たったあれだけの光景を受け入れられない自分に驚いた。それと同時に自分勝手な考えが脳内を駆け巡る。
好きなら追いかけてきて欲しかった。私のこと好きなら女に簡単に触らせないで欲しかった。
「…何やってんだか」
吐き出した声はエレベーターの到着音に掻き消された。その後の仕事は、当たり前に上手くいかず、エルヴィン部長に心配された。それでも社会人として気持ちを抑えて仕事に取り掛かる。
人を好きになるという事が幸せなことではないのだと、この年になって知ることになるなんて思いもしなかった。