恋愛下手の勇気
オフィスを出たのは、21時を過ぎた頃だった。その時間にもなるとビル全体が消灯され、ロビーは間接照明で薄暗くなっている。警備員に挨拶をして社員証をかざして外に出ると、歩道に植えられている街路樹の近く、風に揺れる金糸の髪が目に留まり、足がその場に張り付いたように動かなくなってしまった。
どうしたらいいんだろう。彼に気づかないふりして帰ろうか。こんなタイミングで会いたくなかった。
そんな考えを逡巡していた時間は恐らく一瞬だったのだろう。私に気づいた彼が、名前を呼びながら駆け寄ってきた。
「ハルさん…」
待ちわびていたような表情を見せた彼はその勢いのまま私に手を伸ばそうとした。だけどすぐにその手は宙で止まり、元の位置へと戻っていく。彼の顔をまともに見ることが出来ずに、視線を下に向けた私が彼に尋ねた声は、思いの外低く震えていた。
「どうして…」
「昼間の事が気になって…いや、ハルさんに会いたくて待たせてもらった」
「そう、ですか」
こんな風に言葉を交わしたいわけじゃない。本当は待っていてくれて嬉しかった。それなのに私の黒く渦巻いた感情が素直になる事を邪魔していた。
素直じゃない女は可愛くない。そんなのは百も承知だ。私が憧れるゆき乃さんはまさに素直で、だからこそリヴァイ部長との恋を成就させたんだって、数々の話を聞いて分かっている事なのに。
いま素直にならずに、いつ私は変われるのだろうか。本当は恋がしたいのに、なんていくら本心があっても、こんなんじゃきっといつまで経っても誰とも恋なんてできない。
「煉獄さんと、話がしたいです」
顔を上げてそう伝えた私の目に、眉を少し下げて複雑な表情で微笑む彼が映った。
◇
もう時間が遅いから、と遠慮する私の意見は却下され最寄り駅まで送ってもらう事になった。当然ながら、電車内で本音を伝えるわけにもいかず、他愛もない会話を繰り返していた。その中で知った彼の家と二駅しか変わらないという小さな事実にさえも、私の心臓は鼓動を速め、顔の筋肉は緩くなっていく。触れるか触れないかの距離で吊り革を持つ事さえも緊張した。
これを恋を言わずに、なんと呼ぶのだろうか。
「こんな所まで送ってもらってすみません…」
「それは構わない。むしろこんな夜に一人で歩くなど心配であろう」
「あの、煉獄さん」
駅を出てマンションへ向かう途中、漸く本題に入ろうと深呼吸をして彼の名を呼んだ。自然と止まった足。振り向いた彼もまた、私と向き合って足を止めた。
「今日は変な態度をとってごめんなさい。あの……煉獄さんが、その…女の人と一緒にいるのを見ただけでとても胸が苦しくて。まだ自分の気持ちを伝えてもないくせにって思うけど、それでもあの時、」
堰を切ったように話し始めた私の声は、驚きで止まってしまう。気づけば彼の胸に顔が当たり、背中には腕を回され抱きしめられていた。心臓が爆発しそうな程に脈打っている。突然の事に思考が止まり、「あのっ…」と言葉にならない声を彼の腕の中で繰り返した。
頬が触れている彼の胸板から、私と同じくらい速い心音が響く。
「ハルさんっ…」
「まだ、最後まで言ってないのに」
「すまない、気持ちが焦ってしまった……だが、今日どうしてあのような態度を取られたのか分からなくて、ずっと心中穏やかではなかったのだ。日に日に大きくなっていくこの気持ちに歯止めがきかない。貴女を好きな気持ちが強くなって、どうしたらいいのか分からない」
恋愛経験が少ない私が言うのもなんだけど、恐らく彼もまた経験が多くないのかもしれない。それでも私に想いを伝えてくれたのだろうと思うと、胸が熱くなった。
出会って間もないから、なんて理由はもう必要ない。私を抱きしめるこの温もりを信じて、今までの自分とはサヨナラをしよう。私が本当にしたかった恋を、してみよう。
「カフェであなたと一緒にいる女性に嫉妬しました。二人の距離が近かったし。別にそんな間柄でなくても、簡単に身体に触れる事を許しているあなたにも腹が立った。私が立ち去った後、追いかけて来て欲しかった……私も、どうしたらいいのか分からないくらい、あなたが好きです」
恋に恋する年齢でないのは分かっている。それでもこんな学生の頃のような嫉妬をするのを許してほしい。こんな風に胸が高鳴るのも、もっと知りたいと思うのも、触れたいと思うのも、全部大事にしたい気持ちだから。
「すまない、貴女の気持ちに気づかなかった。どうにもそういう
「嘘だなんて思ってないです…でももう、私以外に触らせないで」
「それは…貴女になら触れてもいいということだろうか?」
「…聞かないで、ください」
今にも燃えそうなくらい顔が熱かった。過去の恋愛を思い出しても、自分の感情をここまで声に出して伝えたことはなかったと思う。でも彼になら、自分を曝け出す恥ずかしさよりも知っていて欲しい気持ちが
彼の腕の中から顔を上げると、熱を
「…好きだ」
胸が高鳴りすぎて苦しくて、でもこんなに幸せなキスは初めての経験だった。