10.二人で決めていく未来
珈琲の香りを漂わせながら二人で今後のことを話し合う。入籍日と新居…いよいよと本格化し始めたわたし達の結婚。結婚指輪を決めたからだろうか、本当に結婚するのだという実感が強くなっていた。
「入籍ですが、ハルさんはいつがいいですか?」
「お日柄で決めてもいいですよ。調べてみましたが、世の男女は記念日や六曜で決めているそうです。わたし達には記念日というのがありませんし…」
無意識に発言したその言葉が胸に刺さる。小さな針で刺したようなチクリとした痛みを覚えた。大した痛みではないけれど、指輪を見ていた他のカップルをまた思い出して、またチクリ。
お見合い結婚なのだから仕方ないだろう。恋愛を重ねてきた人達とは違うのだから。それなのに今のわたしの建人さんに対する感情があまりに大きくなりすぎてしまったせいで、
お門違いもいいところだ。祖父の遺言がなければ、そもそもわたし達はこうして向き合っていないし、結婚も恋愛も有り得なかったのだから。
「ハルさん」
「…はい」
「記念日の定義はそれぞれ違うかもしれませんが、少なくとも私にとって貴女とお見合いした日は記念日でもあります。ただそれは私の一方的なものなので…ですから、入籍する日が私と貴女の初めての記念日になりますね」
「初めての、記念日…」
「それが結婚記念日というのも、私は嬉しいことだと思いますが」
どうしてこの人はわたしの不安を一瞬で取り除いてくれるのだろうか。何も言えずにいるわたしの心に気づいて、言葉にして和らげてくれる。
記念日がないという抗えない事実はどうすることも出来ない。ただ建人さんの言葉で、それでもいいと思えた。これから作っていけばいいんだ、二人で。何でもない日を新しく二人の記念日にしていけばいい。
「そうですね…とても楽しみになってきました!」
自然と緩まる頬。建人さんと微笑み合っている事も少し前までは有り得なかった。
建人さんの視線がわたしを捉え、その表情が少し引き締まった。眼鏡がないからだろうか、隔たりのないその瞳に吸い込まれそうになる。
「手を、出してください」
言われた通りに手を出した。なんだろう、と頭にハテナが浮かぶ。机の上に置いたわたしの手を建人さんが優しく掴んで掌を上に向けた。それから、いつから持っていたのか分からない箱を静かにわたしの掌に置く。中身が何か分からないにしろ、箱の外観からしてその中に特別な物が入っているのは明白だった。
「こ、これは…?」
「開けてみてください」
どきどきと動悸が激しくなっていくのが分かる。恋愛経験の少ないわたしでもこの先の流れは想像がつく。ただ、今はもう頭の中が混乱して数秒先の未来を想像することさえ困難だった。言われるがまま、その箱を開ける。
「…建人さんっ、これ……」
「婚約指輪は断られてしまったのですが、これなら受け取ってもらえるかと思いまして」
「でも…そんなの、」
「ハルさん、貴女に身につけてもらいたいという私の気持ちを汲み取ってもらえませんか? ネックレスなら目立たないしずっと身につけていられるでしょうから…それとも、デザインが気に入らないですか?」
「そんなわけないです! だってこれ、凄く可愛いいなって思ってたやつで、」
そこまで言って気づいた。箱の中で輝くピンクゴールドのネックレス。あの時わたしが見ていたのを、建人さんが見ていたのかもしれない。明確に心の中で欲しいと思ったわけでもないし単純にそれに見惚れていただけに過ぎないのに、きっとわたしの表情から気持ちを見破ったのかもしれない。分からないけれど、それ以外考えられない。
感極まるというのがこういう瞬間のことを指すのだと初めて知る。得体の知れないものが胸の奥から込み上げツンと鼻まで突き抜けるような感覚だった。それがじわじわと目の奥まで広がり熱を持ちはじめる。容量を超えたその想いが温かな水となって瞳を覆った。
「貰っていただけますか?」
「…はいっ……嬉しいです、大切にします…」
「私がつけても?」
わたしの答えを聞くつもりがあったのかは分からない。建人さんの手がわたしの目尻に伸び、指先で零れ落ちた涙を拭いそれをぺろりと舐めた。
何だか見てはいけないものを見てしまったような気がして目を泳がせている間に、手から箱が取られネックレスが取り外される。
立ち上がった建人さんがわたしの後ろに回る。一人であわあわとしているだけで、「少し下を向いて」と低音が鼓膜を揺らせば自然とそれに
わたしの髪を少し掻き分け、首に建人さんの指先が微かに触れる。別にただアクセサリーをつけて貰ってるだけなのに、首まで真っ赤になっているのではないかと思うほどにそこが熱くなっていた。
「出来ました」
「ありがとう、ございます…」
下を向けば視界に入るネックレス。それが輝きを放ちながら自分の肌に触れているだけで嬉しさが込み上げてきた。
「似合っています、とても……綺麗です」
建人さんの声に顔を上げる。座ったままのわたしと立っている彼とは差があるはずなのに、少し腰を屈めていたのか思いの外その距離が近かった。
伸びてきた手がわたしの髪に触れ指先が耳に触れる。どきどきが最高潮になっていたわたしはその熱に身を竦めてしまう。わたしの名前を呼ぶと、その手は静かに離れていった。
「早く、貴女と一緒になりたい」
建人さんにとってこの結婚が意味するものは何なのか。もしかしてわたしと同じような気持ちになってくれているのだろうか。そうだったら嬉しい。
わたしも早く建人さんと結婚したい、と思った言葉はきゅっと締まった心臓の所為で言葉に出来なかった。
相手のことを知らないからこそ、知っていける嬉しさがある反面、知らなかった事実が必ずしもいい事ばかりではないというのを、まだわたしは分かっていなかった。