11.知りたいけど知りたくない
建人さんとの入籍日も新居も、ある程度決まった。結局、お日柄と時期をみて決めたけど、二人で話し合って決めた何でもない日が特別になるのだと思うと感慨深かった。
新居はある程度目星はついているものの、痒いところに手が届かないといった感じで物凄く惹かれる物件があるわけでもなかった。それに加えて建人さんの引越しの準備が大変になるだろうと思い、一旦はわたしが建人さんのマンションに引っ越すことを提案した。広い部屋だったから二人暮しなら全くもって問題がないだろう。それに揃える家具も最小限で済む。
それを建人さんに伝えると、「確かにそうですね」と納得してもらえて胸を撫で下ろした。さすが経理課長、計算が早い。それに今後一緒に生活するうえで、金銭感覚はとても大事だ。
ちょうどわたしのアパートの更新時期も迫っていたため、一緒に住み始めるのは入籍日の前日あたりに決まった。引越し業者を探したり、荷物の整理をしたり、名義変更のリストアップ等と物事が決まる度にやる事が増えていく。結婚をすると言うことは意外と大変なんだと思い知った。
◇
「藍沢さん」
「はい」
「システム部で退職希望者がいるらしいので、手続きの準備をお願いできますか? こちらが書類です。詳細は追ってメールします」
「はい…でも、どうして七海課長の所に?」
「システム部の部長が間違えて私に送ってきたようなので…すみませんが、よろしくお願いします」
七海課長からファイルを受け取ると、一礼してから自席に戻った。椅子に座ると途端にどくどくと心音が耳を貫くように迫ってくる。平静を装えたかどうか不安になるも、誰もわたしの事など気にしていないだろう。皆それぞれお喋りや仕事と、自分の事で手一杯だ。
滞りなく結納という名の両家の顔合わせを終わらせたばかりのわたしは、毎日荷造りやら色んな準備をしていた所為だろうか、感情のコントロールが下手になっていた。正確に言えば、建人さんに対する感情だ。
仕事は仕事だから、とお見合いの事を伏せて今まで通りにして欲しいと最初の頃に頼んだのは、何を隠そうこのわたしだった。結婚してから仕事を続けるのか、その辺はまだ決まっていないけど、どうしても同じ部署というのは仕事がやりにくいと思ったからだ。そして少しでもその話が漏れれば、きっと彼が好奇の目に晒されてしまうだろう。その光景が容易に想像できたからこそ、必要な時まで伏せておくのがいいと思ったのだ。
「へぇ、順調に進んでんだねぇ。でもさ、好きだって言わないの? まぁ言わなくても結婚するんだろうけど…せっかくハルが気づいた気持ち伝えないのは勿体無いなぁ」
「…勿体無い?」
「だって今のハルは恋してるって感じで可愛いよ。今までなかったじゃん、そういうの。相手に合わせてばっかだったし…でもなんか、七海課長は違うというか。お見合いだからとか気にしなくてもいいんじゃない?」
わたしの弁当からおかずを取って口に運ぶゆき乃をじっと見つめる。気にしなくてもいい、のか。確かに結婚することが決まっているから、自分の気持ちを伝えようとはしていなかったかもしれない。その必要はないと思っていた。
本当にそれでいいのだろうか。ううん、違う。自分の気持ち云々よりも、本当は知りたいんだ、彼の気持ちを。わたしはまだ何も聞いていない。この結婚をどう思っているのか、相手がわたしと分かってどうおもったのか。
このまま進んでも結婚する事に変わりはないのかもしれない。だけどきっと永遠に考えてしまう気がする。どうしても不意に抱いてしまう不安を、わたしはこの先ずっと抱えていけるだろうか。相手の本音を聞くのは怖いけど、この一歩を踏み出さなければ、今までの自分と変わらない気がした。可愛いと言ってくれたゆき乃の言葉が、温かな手となって背中を押してくれているみたいに、わたしに勇気を与えてくれる。
今日、建人さんに会えるだろうか。スマホを手に取り初めて自分から誘いの言葉を打ち込んだ。無意識にシャツの上から喉元に触れる。指に当たる無機質なものに自然と顔が緩んだ。
「何で来てくれないのよ」
「だからそれは…以前にも言ったでしょう。理由は変わりません。それと、家入さん。今後人事のことは人事課長に言ってください」
「相変わらず堅いな、七海は」
突然鼓膜を叩いたその会話に、廊下を歩いていた足が止まる。顔を見なくても分かるその声は、少し開いてる会議室の中から聞こえてきたようだった。
そのまま素通りすればいいものを、気になって中を覗いてしまうわたしはきっと馬鹿なんだろう。窓辺に立つ男女の
「ねぇ七海、今夜付き合ってよ」
「ハァ…五条さんを誘ってくださいよ」
「下戸誘っても意味無いし…――」
一瞬、女性の視線が入口に飛んできた気がして、わたしは慌てて踵を返しトイレに駆け込んだ。鎮まらない動悸がいつも彼を見る時に起こるそれとは違うことは分かっていた。
システム部の部長は家入さんだった。さっきの会話で思い出したという方が正しいかもしれない。社内全員を記憶なんてしていないけど彼女が優秀で綺麗な人だというのは知っていた。でも、そんな家入さんと建人さんが砕けたように会話をして仲良さげにしている光景は、今のわたしには毒だった。
来てくれないってなんの事だろう。二人はどんな仲なんだろうか。お酒を一緒に飲むだけ…なわけない。あんな素敵な女性を隣に置いて、そんなはず。もしかしたら建人さんと家入さんは……。
「…あ、れ……っ…」
スマホを握りしめたままの手元を濡らしたものが自分の涙だと言うことにすぐに気づけなかった。ぽたぽたと拭っても拭っても溢れてくるそれを止める方法が分からないわたしは、暫くそこから動けなかった。