12.素直になりたい
その日の午後をどうやり過ごしたのか覚えていない。赤くなってしまった目元を見られないように下を向いてただひたすら仕事をした。
あの後、すぐに建人さんに送ったメッセージを取り消し電源をオフにする。便利な機能だなと感心するも、わたしの勇気がこうも簡単に無かったことになってしまうのが少し悲しかった。
でもこんな気持ちで、こんな顔で会えない。知りたいことは沢山あるのに怖くて聞けない。
「お先に失礼します」
定時になるとすぐに片付けをして会社を出た。午後の会議から建人さんが戻ってくる時間だったからだ。慌てていたせいで角を曲がった時にすれ違う人とぶつかってしまうも、手短に謝罪し駆け足でビルを出る。早く、この場から離れたかった。
すぐに家に帰る気力もなく、人の流れに沿ってあてもなく歩いた。考えても答えが分かるわけではないけれど、そんな事分かってるけど…二人が並ぶ光景が目から離れない。あの場に遭遇しなければ、今頃建人さんと食事でもしていたかもしれない。そう思うとやるせない気持ちに襲われる。
ふと足元から視線を上げると、もう完全に日も落ち人も疎らだった。結構歩いたような気がしたけど、駅の周辺をぐるぐると回っていただけなのかもしれない。もう帰ろう。そう思って駅の方へ足を向けると、駅前の明かりが当たらないような柱の影に、見覚えのある姿を見つけ、気づいたら導かれるようにそこに向かっていた。
「おや、随分と陰気臭い顔をしてるのぉ」
「あの…」
「見ていくかい」
そこに座っていたのは、あの時の占い師だった。以前とは違うこの場所にどうして。そう思うも、占い師なんて転々とするのかもしれないと一人納得をしてそのオバサンの前に座る。占いに縋るつもりもなかった。ただ、そういえばこの人に言われてすぐ建人さんとのお見合いがあって結婚という流れになったことを思い出した。
「ほうほう、アンタはあの時の」
「覚えてるんですか」
「わたしゃ見てきた手相は全部覚えてる。それにお前さんは際立って男運が悪かったからな」
「…そう、ですか。男運…」
「ただ一つ言い忘れておった事がある。その運を下げているのは他でもない、お前さん自身だな。言ったであろう、周りにばかりに合わせて自分を見せていない。そんな事をしている限り、常に陰気を取り巻いてしまう。まぁそれはお前さんに限ったことではないがな」
占い師の言葉は、恐らく正論だろう。これが占いなのかと問われればよく分からないけれど、言いたことは分かった。運が悪いと言われればうまくいかない理由をその所為にできる。でもきっとそれが間違っているのだろう。うまくいかない事を無意識に何かの所為にばかりにしてきたわたしに、そうではないと言いたかったんだ。今のままでは、例えいい運気であっても悪くなってしまうと。
電車に乗り、いつもとは違う駅で降りた。何度か来たことはあってもあまり社外で会うことはないゆき乃のマンションに向かうためだった。
このモヤモヤとした気持ちを鎮めるためには、建人さんと話をするのがきっと正解だろう。それは分かっていても、会えば思ったことをうまく言葉に出来るか分からない。だからこそ、ゆき乃に話を聞いてもらいたかった。大丈夫だと、言ってもらえるような気がしたからかもしれない。
「あれ…ゆき乃は?」
「いまシャワーっす」
「そっか、じゃあわたしは帰ります」
「入ってください。つっても俺の家じゃないけど…ここで帰したら俺がゆき乃さんに怒られる」
チャイムを鳴らして出てきたのは、ゆき乃の恋人の伏黒くんだった。よく会っているのは知っていたけど、平日の夜もこうして家に来ているなんて知らなかった。ゆき乃のシャワーをさも当たり前な顔で言ってくる。改めて二人が恋人なんだと認識するのと同時に、視界に入った寝室のベッドを見て熱が顔に集中した。
シャワー上がりのゆき乃は、わたしが部屋に上がっている事を特別気に留める様子もなく、髪の毛をタオルで拭きながら「何があった?」と耳を傾けてくれる。たったそれだけの言葉で、嬉しくて涙が溢れそうだ。
ゆき乃の前だと自然と気持ちを吐き出せた。今日会社で見たこと、自分の気持ちを伝えた。本当は建人さんの気持ちが知りたいけど、聞くのが怖いと。
なるほどね、とわたしの話を聞いてくれていたゆき乃が頷く。伏黒くんがこちらにやってきてゆき乃にミネラルウォーターを渡した。その視線は常にゆき乃を向いてるけど、吐き出された言葉はわたしに宛てられていた。
「誰だって怖いっすよ…相手の気持ちを知るのは勇気がいる。自分に向けられてる笑顔が特別なものなのかどうかなんて本人に聞かなきゃ分かんねぇし。例えそうじゃなくても、好きだって伝えないと何も始まらねぇ……と、俺は思います」
「お、いいこと言うね恵!」
「だって、ゆき乃さんがそうだったから。俺のこと全然意識してなかったでしょ…周りの奴らと同じ態度だし、訳わかんねぇって。悔しくて男として見て欲しくて…」
「それで飲み会でキスしてきたのぉ?」
「え、キ、キス?!」
「ちょっ! それは別にいま話さなくても…」
澄ました顔していたかと思えば、ゆき乃に言われて顔を真っ赤にしている伏黒くん。わたしをチラリと見れば、「まぁそういうことっす」と言ってキッチンへと逃げた。
そんな彼を嬉しそうに微笑みながら視線を追いかけているゆき乃は、本当に可愛い。伏黒くんを手のひらで転がしてるようだけど、それでもゆき乃の心を掴んでいるのは伏黒くんだけだ。
「可愛いでしょ、恵」
「二人にそんな経緯があったなんて知らなかったけど…ゆき乃、幸せそうだもんね」
「幸せって人それぞれじゃん。愛されてるだけで幸せだと思う人もいれば、尽くして幸せだと思う人もいる。私は自分の気持ちを伝えてないと気が済まない性格だけど愛されたいし…恵の強い愛情が私には心地いいんだよね。ハルにも、自分らしく恋してほしい。楽しいよ? 素直に生きるって。そりゃ全部ってわけにはいかないけど、少なくとも七海課長の前では素直になれたらいいなって私は思うけど」
「ゆき乃…」
「一生を共にする人なんだから! 少しくらい我儘言ってもいいと思う。それにさ…七海課長の気持ちもハルが勝手に想像してるだけでしょ? それで勝手に落ち込んでたら、課長だって可哀想だよ」
確かにそうだった。建人さんの言葉でわたしは何ひとつ聞いてない。ちゃんと話をしなきゃ。わたしもゆき乃のように素直になってみたい。
建人さんの笑顔が脳裏に浮かぶ。温もりを思い出したくて、喉元に手を置いた。だけど――
「え、あれ……うそっ!」
指先に触れるはずの物がそこになかった。慌てて首を触るもそこにあるのは素肌だけ。ひやりと背筋が冷たくなり血の気が引いていく思いがした。