番外**Birthdaystory
月初めの土曜日出勤の今日。それは余りに突然で、何も知らなかったわたしは動揺し、そんな自分を心底恨んだ。
「七海〜! おたおめ!」
「…何ですかそれ」
「知らない? Happybirthdayってことだよ!」
突然総務部にやって来た五条部長が大きな声で彼にそう言った。ファイルを棚に取りに行きデスクに戻ろうとしていたわたしは、そのファイルを大袈裟にぶちまけた。わざとではない。五条部長から発せられたその言葉に驚きを隠せなかったからだ。
その音に当然みんなからの視線が飛んでくる。勿論、建人さんの視線も。ファイルを落とした事よりも彼の誕生日を知らなかった失態を恥じる気持ちが強かった。
「失礼しました!」
慌てて拾うわたしをみんなは特に気にする様子もなく、彼に向けて様々な言葉が投げかけられた。
「七海課長、今日誕生日だったんですねぇ」
「え、いくつですか〜?」
「おめでとうございます!」
それに対して「いえ…」と返す彼の矛先は五条部長へと向けられ、「余計なことを言わないでください」と低めの声が紡がれた。勿論、そんなこと五条部長はお構い無しだけど。
ファイルを拾いながらもわたしは自分を心の中で叱咤した。馬鹿馬鹿、わたしの馬鹿。知らなかったとはいえ、こんな風に建人さんの誕生日を知るなんて。それに、わたしよりも先に祝福の言葉を伝えた五条部長や同僚に対して悔しくて卑しい気持ちを抱いてしまう。知らなかった自分の所為なのに。
こんな風に考えてしまう自分が嫌になり、ファイルを机に置くと、「資料探してきます」と同僚に伝え、建人さんの視線から逃げるようにフロアを後にした。こんな自分を見られたくなかった。
資料室に用事なんてないけれど、頭を冷やすのにはちょうどいいと思って備え付けられている椅子に座った。昨日もメッセージのやり取りをしたけど、そんな事何も言ってなかった。言ってくれたら良かったのに。そうしたら一番にお祝いできたかもしれないのに。なんて、知ろうとしなかったわたしが悪い。
はぁ、と深い溜め息が漏れる。仕事をサボるなんて初めてだった。早く戻らなければ、と重い腰を上げてドアノブに手を乗せた瞬間、開けてもいないのに勝手に扉が開き、その先には建人さんが立っていた。驚いて声も出ないわたしを押しのけ資料室に入ってくる。扉を背にしたまま、建人さんがわたしを見下ろしていた。
「何をしていたのですか」
「す、すみません。いま戻ろうと…」
「サボっている事を咎めに来たのではありません。どうしてそんな…泣きそうな顔しているんですか」
一体わたしはどんな顔をしていたと言うのだろう。頬に手を添えられて顔を上げられる。顔を見ることができないから視線をネクタイに留めておいたのに、建人さんはお構いなしに視線を合わせてくる。サボった事を怒っているかと思ったけど、建人さんの表情は二人でいる時みたいに柔らかかった。だから、涙腺が緩んでしまいそうになる。
「ごめ、なさ……誕生日、知らなくてっ…」
「やはりその事でしたか。構いませんよ、私が伝えていなかったので」
「でもっ…そうじゃなくて……」
勢いに任せて言ってしまいそうになった言葉を直前で噤んだ。言ってもし面倒な女だと思われてしまったら。嫌われてしまったらと思うと、自分の気持ちを伝えることに戸惑いがあった。そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、建人さんが優しく微笑んで「大丈夫です。貴女の気持ちを教えてください」と諭すように安心させてくれる。
いつも建人さんにしてもらってばかりで何も返せていない気がする。それなのに、こんな子供じみた我儘を言ってもいいんだろうか。甘えてもいいんだろうか。
「…嫌、だったんです。建人さんの誕生日をわたしが知らななかったことも…他の人がわたしより先におめでとうって言ったことも…っ、そんな風に思ってしまった自分を建人さんに見られたくないって思ってそれで…きゃ、」
無抵抗に体が動き、顔が厚い胸板に触れる。抱きすくめられていると数秒後に認識し、顔がカァと熱くなった。力強い腕がわたしと建人さんの距離を縮めていく。苦しいくらいのその力に彼の名前を腕の中から呼ぶと、「すみません、つい」と少し慌てた様子でわたしを離した。
見上げると、眼鏡をくいっと指で押し上げながら視線を泳がせる。初めて見るような建人さんの表情に胸が強く脈打ち始め、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。
「い、今のは…わたしの気持ちを受け止めてくれたと考えていいのでしょうか?! 面倒な女だと思われずに済んだと…」
「そんな事思うはずがないでしょう。貴女がそんな風に思ってくれていたなんて想像していませんでした…嬉しくて仕方ありません」
「あ、あの!」
わたしだって言われなければ建人さんの気持ちなんて分からない。だったらわたしも、ちゃんと言葉にしないと伝わらない。勇気を出せ藍沢ハル。今日という日はもう、あと数時間で終わってしまうのだから。
「お祝いしたいです、建人さんの誕生日…プレゼントはまた改めて用意しますので」
「プレゼントは必要ありません」
「え…」
「その代わり、ハルさんの作ったご飯で祝ってくれますか?」
◇
シャンパングラスに注がれた黄金色がより一層この空間をお洒落なものに変えていた。テーブルに並べた料理は本当に誰でも作れるような簡単なものだった。それでも嬉しそうにしてくれる建人さんは、本当に素敵な人だと思う。
「本当にこんな簡単なもので…申し訳ないです。ローストビーフのひとつでも作れたら良かったのですが、生憎そのような技量は持ち合わせていなくて」
「…いつまで緊張しているのですか?」
「だって、何だか人様のキッチンを使うというのは…」
「もうすぐ貴女も使う事になるでしょう。この家にも早く慣れてください」
優しい口調で頬に触れていた髪をそっと撫でる。その仕草が余計にわたしを緊張させていると建人さんは分かっていないのだろうか。それに緊張していたのは、建人さんがキッチンに立つわたしをじっと見つめていた所為でもあるのだから。
「本当にプレゼントは必要ないでしょうか…」
「いいんですよ。こうして貴女と一緒に食事ができるだけで十分です…では、いただきましょう」
「あ、待ってください!」
シャンパングラスを持った建人さんを制止し、深呼吸をする。真っ直ぐ建人さんの目を見つめて、遅れを取り戻すかのように精一杯の愛を込めてその言葉を伝えた。
「建人さん、お誕生日おめでとうございます。来年も再来年も…ずっとお祝いさせてくださいね」
わたしの言葉に目を見開いた建人さんだったけど、すぐに柔らかな表情に代わり嬉しそうに微笑んだ。大切な人の誕生日を祝える幸せを噛み締めながら、何度も絡まる視線に嬉しくなって、ハイペースでシャンパンを喉に流し込んでいた。
来年はもっと手の込んだお祝いをしたいな。建人さんの驚いた顔も見てみたい。サプライズをしてみるのもいいかもしれない。どんな風に驚いてくれるんだろう。
「…建人……さん」
願望を詰め込んだ心地よい夢を見ていたわたしは、翌朝目が覚めて自分の犯した失態を知り、床に頭をつけることになった。あろうことか、酔っ払ってそのまま寝てしまい、家主のベッドを占領してしまっていたのだ。初めて彼と向かえる朝がこんな事になるなんて穴があったら入りたい。
「本当にすみません! 建人さんをソファで寝かせるなんて…」
「え、まぁはい…そんな事は別に構いませんよ」
「普段はちゃんとしてるんです、ただ昨日は嬉しくて…いや、言い訳無用ですね! 本当に申し訳ありません!」
くすくすと聞こえた笑い声に安堵と恥ずかしさで委縮するも、「大丈夫ですよ」とわたしの髪を撫でる建人さんの手の温もりがわたしの心に伝染する。この先何があっても、わたしを包み込んでくれると思える安心感がそこにはあった。
自分の過失を曝け出すのは羞恥が付きまとうけど、こういう部分を知られて受け入れられていくというのが夫婦になるというのはこういうものなのかもしれない。
寝言で彼の名前を呟いていたこと、わたしを送る予定だったため実はシャンパンはノンアルで単純に気分に酔っぱらっただけだったこと、ソファではなく同じベッドでわたしを抱きしめながら添い寝していたいことも…――わたしは何も知らなかった。
その事実を建人さんがわたしに教えてくれたのは、結婚してから初めて迎えた誕生日だった。
Happy Birthday to KENTO…