03.お見合い相手

 母親同士が会話をしている内容も、時折話を振られて答える七海課長の言葉も、わたしの耳には入るもののまるで暗号を聞いているかのように意味をなさない言葉として脳に入ってくるようだった。
 目の前に座っているのは七海課長のそっくりさんなのではないかと何度も考えたが、どうやら違うようだった。わたし今何してるんだっけ、と状況が把握できなくなるほど混乱している。ちらちらと盗み見るように顔を上げて七海課長を見るも、やっぱり七海課長だった。でも少し違うのは、眼鏡がないというだけでなく、何となく表情が柔らかいような気がするからかもしれない。眼鏡はわたしもしていないけれど。

「まさか二人が同じ職場だったなんてねぇ! これも運命かしら」
「建人さんは本当に素敵な息子さんでいらっしゃるのですね。ハルには勿体ないくらいです」
「そんな事ないですよ。ハルさんも古風な感じで落ち着きがあっていいですわ」

 進んでいく会話に、本当に七海課長と結婚するのだろうかと疑問に思う。いくら遺言とは言え、この時代に法を駆使すれば切り抜けられそうな予感がする。わたしだって相手を選びたいとは思ったけど、七海課長だって相手は選びたいだろう。母の言うように、わたしには勿体ない逸材だ。
 着物の所為で酸素が薄い。大きく深呼吸をしたわたしに、「大丈夫ですか?」と七海課長の声がわたしへと向けられた。

「少し、散歩でもしましょうか」
「いいわねぇ! 私達は適当に帰るからあとは若い者同士で仲良くしなさい」

 七海課長の言葉に、母親達が同意する。後は若い者同士で、なんて言葉なんて古いドラマでしか聞いたことない。まさかわたしが言われる事になるなんて。

 料亭の庭は、よく写真で見るような日本庭園になっていた。先に歩く七海課長の後を追いかけるように歩く。わたしがちゃんとついてきているのか、七海課長が頻繁に後ろを確認し歩幅を合わせてくれた。
 こうして意識してみると、七海課長はかなり長身でがっちりとした体形をしているんだなと初めて認識できた。普段そんな事を考えたこともないし、大抵会話をするときはどちらかが席に座っているからだ。並んで同じ方向を向いて歩くことなどない。わたし自身、女としては長身の方だけどそれでも見上げるくらいの身長差はある。

「正直驚きました」

 歩きながら七海課長が話し始める。驚いたという割には、わたしを見たときの表情も変わらなかったし声色だっていつもと同じだ。動揺したわたしとは全然違う。

「はい、わたしも驚きました。お見合いもそうですし祖父が勝手にそんな話を進めてたのも……それに、その相手が七海課長だったなんて」
「いえ…そういう意味ではなく。確かにこの話にも相手が貴女であるのも驚きましたが、それよりも藍沢さん自身に驚きました」
「…どういう意味でしょうか?」
「普段とは違い、貴女があまりに美しいので」

 わたしの驚きは声にならず、その代わりに熱が顔に集中するのが分かった。照れるなんて可愛いものじゃない。見られているという事実に羞恥が湧き上がってくる。言われ慣れない言葉の所為で心臓がうるさく踊っている。信じられない、あの七海課長がわたしに向かって美しいだなんて。

「あ、あの……あっ、」

 草履が石畳に引っ掛かりバランスが崩れる。着物だから足を開いて踏ん張ることもできずそのまま体が前に倒れそうになる。こういう時って状況が分かってもそれを回避する行動が咄嗟に出来ないものだ。反射的に目を閉じたわたしは、気づいたら七海課長に支えられ彼の胸元に飛び込んでいた。ふわりと鼻を掠めたシトラス系の香り。肌に当たった胸板は厚く、わたしが倒れてもびくともしない。

「大丈夫ですか?」
「す…みません! 着物なんて着慣れていなくて。洋服でいいんじゃないかって思ったんですけど、母がどうしてもといって用意したものですから…」

 慌てて七海課長から離れながら、恥ずかしさで饒舌じょうぜつになってしまう。鏡を見なくても自分の顔が真っ赤になっているのが予想できる。視線を上げることができずに七海課長のネクタイに焦点を合わせて喋っていると、すっと自然に彼の手が伸びてきて、崩れて顔に掛っていた髪の毛を静かによけてくれた。

「会社では制服ですからね。洋装も楽しみです」

 口許を緩ませ柔らかく微笑む七海課長から暫く目が離せなかった。いつもと変わらない口調なのに、わたしの耳に届いた声は、とても優しいものだった。

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