04.隠しきれない動揺
アパートに着いてからも、わたしの頭は機能していなかった。与えられた情報が多すぎて処理が追いついていかない。今日一日の出来事が濃密で非現実的で、何かのドッキリなのかと思う程だ。
その日は何となく夢見心地で、寝る前のルーティンでもあるアニメ鑑賞もせずに布団に入った。思い出す七海課長の微笑みに心臓がざわざわと揺れる気がする。それでも本当にあれが七海課長なのか、未だに疑いながらいつの間にか眠りについていた。
カーテン越しの朝日で自然と目が覚める。起きて窓を開け、顔を洗って朝食用のパンを焼いて珈琲を入れた。
何だかんだでいつもと同じ朝だった。一晩寝たからだろうか、昨日よりも心が冷静になっていた。恐らく一番の衝撃的だった驚きという感情が落ち着いたからだろう。相手が七海課長であろうとなかろうと、わたしに待ち受けている未来は変わらない。偶然、見知った相手だったというだけだ。うん、そうだ。
「おはようございます」
わたしの背後にある入り口から聞こえた声にいつも以上に背筋が伸びた。その声に対して各方面から「おはようございます」と答える声が飛び交う。オフィスの当たり前の光景だろう。
その当たり前の状況なのに緊張が走る。出遅れて小さく挨拶をしたわたしは無意識にデスクに座った姿を目で追っていた。いつもと変わらず眼鏡をして髪の毛をピシッと固めている七海課長と目が合う。
とくん、と心臓が大きく動いた。顔に熱が集中する前に視線を外してしたを向くも、思ったより大袈裟な動きになってしまった。変に思われたかもしれないと変な汗が出てきそうだった。
別にいつもと同じことなのに、妙にそわそわしてしまう。目が合うことは今まで何度もあったのにな。
「え、ちょっと待って! 七海課長?!」
「ゆき乃声落として! まだ決まったことじゃ、」
「でも遺言でしょ? ほぼ決まりじゃんよ。ハルのじいちゃん、面白い人だったけど…まさか勝手に婚約させてるとかウケる!」
昼休み、食堂の隅でゆき乃に報告をした。お見合いをしたこと、その理由が祖父にあることを含めてすべて。そしてその相手が七海課長だったと言うことも。
お見合いのことはそこまで驚きはしなかったけど、相手にはさすがのゆき乃も驚いたらしい。話し終えた後も、「七海課長かぁ」なんてパスタをフォークに絡めながら何度もその名を繰り返す。
「なかなかいい男だよね、七海課長って」
「え?」
「結構モテんじゃん?」
「えっ……そう、なの?」
「五条部長ほどじゃないけど、その正反対のあのピシッとした真面目な感じがいいって子は多いよ。社内人気も高いんじゃないかなぁ…知らなかった?」
周知の事実だと言うように、次のパスタを巻き終える間に零した話は、わたしにとっては衝撃的な事実だった。七海課長がモテるなんて初耳だ。胸の奥に違和感を感じたけど、気のせいだと思って食べかけの肉を口へと運んだ。
午後になり、会議の準備をするために必要書類を運びペットボトルを配置する。お茶汲みからこの方法に変わったのは七海課長の案だと聞いたことがある。昔から当然のように女性事務員がやる習慣になっている雑務も、この時代には合わない。その時間を他の業務に割けるから、と。そのお陰で随分と会議準備も楽になったものだ。
そんな事を考えながらホワイトボードを動かしていると、「藍沢さん」と近くで声が聞こえ、驚いて手に持っていた余りの資料がバサバサと床に落ちた。ボードが死角になって入ってきた事に全然気が付かなかった。
「すみません、驚かせてしまいましたか」
「いえ、大丈夫です……あ、と…」
慌てて資料を拾おうとしゃがんで手を伸ばしたら、わたしより先に腰を
すみません、と触れた手を引っ込め胸元でもう片方の手で押える。指先がじんと熱い。
「大丈夫ですか?」
差し伸べられた手は骨張っていて大きくて男の人らしい手だった。それがまた何故かわたしの顔を熱くさせる。昨日の七海課長を思い出したからなのか、わたしが勝手に意識しているからなのか。きっとまだ動揺しているのだろう。結婚相手が七海課長ということに。
わたしはその手を掴まず、「失礼しました」と立ち上がり七海課長から書類を受け取るとお辞儀をして会議室を早足で後にした。
眼鏡の奥、七海課長の視線が真っ直ぐにわたしを射抜くから、これ以上あの場にいたら自分を見失いそうだった。