05.生まれた乙女心

 いつもと変わらない日常なのに、少しの変化が加わった。ただそれに順応できないわたしの心は不安定で、七海課長の目をうまく見ることが出来なくなってしまった。
 そんな日々が続き、お見合いから一週間も経たない内に母からの連絡が入った。七海課長の名前が出た時、もしかしたら破談になったのかという考えが過ぎった。ただその後に続いた言葉に、そうではないと分かり安堵が零れる。そもそも遺言なのだから簡単に破談にはならないのかもしれないけど。

「え、待って…もう結納とか。入籍日の日取り? そんな話までもう……」

 どうやら親同士でとんとん拍子に話は進んでいるらしい。やはり最初から破談というものは存在しないのかもしれない。電話を切ると無意識に溜め息が漏れた。言葉では言い表せない感情が溢れて漏れた、という感じだろうか。
 結婚だなんて実感が湧かない。きっとプロセスがないからだろう。でも昔の人達はこうやって結婚してきたのだ。顔も知らない人と結婚し、そこから関係を築いていって家族になっていく。テレビで見たことのある老夫婦はお見合い結婚だったが、その年になってもお互い相手を思いやり慈しんでいた。だからお見合い結婚に対して悪いイメージはないけれど、自分にうまく当てはめることができないでいるのだ。

 その翌日、またいつもと変わらない朝を迎え同じ時間に出勤をする。ロッカーで制服に着替えてパソコンを立ち上げ、植物に水をあげているとカツンと足音が聞こえた。
 今日は早い出社の人がいるんだな、と顔を上げて挨拶をした。水差しを落とさなかった自分を褒めてやりたい。

「おはようございます、藍沢さん」
「な、七海課長……おはようございます。今日は早いんですね!」
「貴女がそうやって毎日準備をしてくれていたんですね…知りませんでした」
「いえ、これは自分で勝手にやってることなので! 緑がたくさんあると目の疲れにいいですし…」
「私の仕事がはかどっていたのは貴女のお陰なのですね。ありがとうございます」

 自分の行いが感謝されるだなんて思いもしなかった。それを期待してやっていたわけではないけれど、こんなにも嬉しくなるなんて。
 嬉しくて心が温かくて、顔が緩んでいる自覚がなかった。七海課長に言われるまで。

「そんな風に笑うんですね…貴女の笑顔は初めて見ました」

 そう言いながら一歩近づいた七海課長に、笑顔を指摘されたことの羞恥からか心臓が大きく跳ねた。いつもと変わらない七海課長なはずなのに、わたしを見つめるその瞳は、あの日を思い出させる柔らかさがあった。
 少し身を屈めて顔を寄せた七海課長の声がわたしの鼓膜を甘く叩いた。

「藍沢さん、今夜食事に行きませんか」





 仕事の合間を見計らって慌てて6階の営業企画マーケティング部に駆け込んだ。ゆき乃は自席にいて、隣の席に座る伏黒くんに何かを教えていたのか椅子を転がして近づいて喋っていた。わたしを見つけるなり手を挙げ、近くにやってきてくれる。突然のミスマッチな訪問者にフロアがザワつくもそんなのはどうでもいい。

「どうしたの? 慌てた顔して珍しい」
「ちょっと助けて欲しいんだけど…」

 ゆき乃の耳元で懇願した内容に、見る見る内にゆき乃の顔が緩んでいく。でもそんな事気にならないくらいわたしは焦っていた。
 出勤の服装なんてシンプルだし可愛げなんてないパンツスタイルだ。そのままで七海課長と食事になんて行けない。だけどわたしには断れなかった。行きたいと思って返事をしてすぐ、自分の現状に焦ったくらいだ。

「まぁ任せなさい。メイクするだけで違うから!」

 ゆき乃が女神に見えた。いつ何時なんどき、男から誘われるか分からないんだから毎日メイクしてお洒落な格好にしときなさい、と以前ゆき乃に言われた言葉を思い出し、それを適当にあしらった自分を殴ってやりたいくらいだった。

 その日は真面目に仕事をしているつもりでも、その脳内の思考は停止し、心臓の内側からくすぐられているかのようにずっとざわざわしていた。

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