06.特別な感情
「好きな食べ物、嫌いな食べ物はありますか?」
「いえ……あ、ししゃもが苦手で…」
「フッ、大丈夫です。ここはイタリアンですからそれは出てきませんよ」
わたしの言葉に笑いの含んだ声で優しく返してくれる。緊張で吐きそうだ。七海課長が笑ったことも真新しい発見なのに、そんなことを気にしていられる状況ではない。向かい合って異性と食事をしに来るというのがこんなにも緊張するものだっただろうか。七海課長のネクタイから視線を動かせない。
定時に仕事を終えたわたしは、ゆき乃にメイクと髪の毛も少しだけセットしてもらって会社から少し離れた待ち合わせ場所に向かった。
わたしが着く頃にはもう七海課長がいて、わたしを見るなり少し目を見開くもすぐにいつもの七海課長になり、「行きましょう」とこのレストランに案内してくれた。
メイクは変じゃないだろうか。髪型は崩れてないかな。それより服が釣り合ってない。七海課長みたいにスーツならまだしも、わたしの服なんて居酒屋がお似合いだろう。
緊張で余計なことまで考えてしまう。こんな状況が久しぶりだからだろうか。異性といえば伏黒くんだって異性だけど、こんな風に緊張なんてしない。ゆき乃の恋人だからなのだろうか。でも同期の村田くんが前に座っても緊張しなかった。あれはその他大勢がいた飲み会だったからなのか。
「……藍沢さん?」
「あ、はい!」
「そんなに緊張しないでください。私が怖い、でしょうか」
突拍子もない言葉にわたしの頭にハテナが浮かぶ。少し眉を下げてそんなことを言う七海課長が、その視線を誤魔化すかのように眼鏡を指で押し上げた。
「怖いだなんてとんでもないです。ただ緊張してしまって…こうして異性と食事というのも慣れてませんし、ましてや七海課長ですから。あ、七海課長が嫌だとかそういうのではなくですね……その、まだ何も実感がなくて」
ダメだ。緊張しながら喋ると変に饒舌になってしまう。それに最初から熱い頬の赤みはもうきっと隠しようがないだろう。メイクで少しは誤魔化せてるとは思うけど。
「安心しました」
「え?」
「いえ…実感がないというのは私も同感です。だがそれはこれから二人でいれば少しづつでも感じられるかと思います。そうですね…まずは名前で呼び合いましょうか」
「え?」
「…ハルさん」
いつもと違う、特定の人しか許されないその呼び方でわたしの名前が彼の口から紡がれた。心臓がきゅう、と絞られるように小さくなった気がする。今まで気がつかなかったけど、七海課長の声は穏やかなのに少し色気がある気がする。それがどうやらわたしの心を甘く震わせているのだろう。
「…な……七海さん」
「建人です」
「え…」
「結婚をすれば貴女も同じ七海になりますから。それに、妻には名前で呼ばれたいものです」
呼吸が止まったかと思った。それくらいの動揺だ。まだ感情が混乱している最中に、七海課長から「妻」というワードが出ただけで、それが自分を指すのだと認識しただけで、顔から火が吹き出るかと思った。
でも七海課長は将来の夫なのだ。確かに姓で呼ぶわけにはいかない。深呼吸をして萎縮した肺に空気を送り込む。吐き出した息に乗せた声はやはり小さかった。
「……建人さん、でいいですか?」
「はい」
蚊の鳴くような小さな声も七海課長は拾ってくれた。無意識に上げた視線の先には、照明の所為だろうか…少しだけ顔を染める七海課長がいた。勘違いかもしれないけど。会社では変わることはない表情だからこそ、特別な感情が湧いてくる。
柔らかく微笑む顔も照れを含んだ顔も、わたしだけが見られているのだと思うと嬉しくて自然と顔の筋肉が緩んでしまった。