07.近づく距離
七海課長もとい、建人さんとの食事はハッキリ言って楽しかった。常に緊張はしていたものの、彼の柔らかな口調のお陰なのかは分からないけど、わたしも普通に会話ができたと思う。あとはお酒の力だろう。普段飲まないワインは、グラス一杯で程よく心地いい気分にさせてくれた。
「結納の日は、どうやら両家で決めてしまったようです」
「母から聞きました…来週ですよね」
「はい。結納の儀というよりは、両家での食事会になると聞いてます。その辺りは任せてしまっておりますが、その後…入籍日や新居などは私達二人で決めていきたいと思っています」
「二人で…」
「えぇ。夫婦になるのですから、相談しながら決めていきましょう。そうすれば実感も湧いてくるのではないでしょうか」
食事を口に運びながらそう遠くない未来の話を進めていく。今まで親同士が進めていたこの結婚の話だったけど、二人で決めていくという言葉に、鼓動が強くなっていく。実感とはまだほど遠いかもしれないけれど、一歩前に踏み出したようなそんな感覚だった。
それと同時に、胸が妙なざわつきを覚えた。この結婚の話に、建人さんはどう思ったのだろうか。断るという選択肢があるのかどうかは不明だけれど、相手が誰であっても受け入れたのだろうか。
ゆき乃が言っていた「なかなかいい男」「結構モテる」という言葉が、喉に刺さった小骨のようにずっと引っ掛かっていた。今までそんな風に見たことはなかったとはいえ、確かに真正面からまじまじと見ればゆき乃の言葉は納得できた。日本人離れした整った顔立ち、切れ長の目元、高身長に恵まれた体格、そして出世が期待される逸材。
これでモテていないという方が無理があるだろうし、もしかしたらそういう相手がいるのではないかと思ってしまう。相手がいないにしても、彼とわたしが釣り合っているなど到底思えなかった。自分に自信はないけれど、そこまで卑屈になっているわけでもない。至って普通の平凡な人間。単純に、建人さんがハイスペック過ぎてそう思ってしまうのだ。
気になるけどそんな事は聞けそうにない。昔から
「…ハルさん? どうかしましたか?」
「すみません、ぼーっとしてました。少し飲み過ぎてしまったのかもしれません。えっと…入籍日ですよね。やっぱり六曜とかで決めた方がいいでしょうか」
「では、お互いに候補を持ち寄りましょう。週末お会いしませんか? その時に日取りを決めるのと、あとは指輪を見に行きましょう」
「え? 指輪ですか?」
「貴女の好みもサイズも分からないので、一緒に決めたいと思っています」
じわじわと結婚という言葉に心が侵食されていく。まるでわたしの雑念をなかった事のように覆い隠しているかのようだった。そして気づけば、嬉しいという感情で心が満たされていた。
食事を終え、建人さんがアパートまで送ってくれることになった。駅までで構わないと遠慮したけど、それなら最寄り駅までとなった…にもかかわらず、駅から10分程歩くと会話の中で伝えたところ、結局アパートまで送られることになってしまった。駅を降りてから建人さんの家が反対方向だと知り申し訳ない気持ちが大きかったが、隣を歩いてくれるのは嬉しくこそばゆい気持ちになった。自然とわたしを車道から遠ざけてくれて、その優しさに心が温かくなる。
「あと少しなので、この辺で大丈夫ですよ…」
「いえ、部屋に入るまで見送ります。この辺はいつもこんなに暗いのですか? 駅周辺も明かりが少ないような気がしますが」
「言われてみれば暗いかもしれませんが…気にしたことありませんでした」
「治安も良いとは言えないようですね。
「オートロックだなんてそんな贅沢はできませんよ! 建人さんは心配性なんですね。わたしは大丈夫ですよ、変質者だって人を選ぶでしょうし…」
周辺を調査する人みたいに見回してるから少し可笑しくて含み笑いをしながら答えた。普段の仕事ぶりからしてキッチリしている人だとは思ってはいたけど、こういう下調べも得意そうだなと感心する。
ちょうどその時アパートに着いた。オートロックではないにしろ、ボロアパートには住みたくないからそれなりに小綺麗なアパートだ。足を止めてお礼を言う為に建人さんの方を向いたら、知らぬ間に伸ばされていた手がわたしの頬に軽く触れた。眼鏡の奥から覗く建人さんの瞳に、赤面して固まっているわたしが映っている。
「分かってないようですが…貴女はとても可愛らしいです。その髪型もメイクも。私に会うためにしてくれたのだと自惚れてますが、違いますか?」
建人さんの声がわたしの呼吸を浅くしていく。鼓動が激しくなって、体中の血液が沸騰して猛スピードで全身を巡っていくような感覚だった。
わたしはこの感覚が何かをもう知っていた。薄々気づいていた。押し上げるように鼓動を早めている正体が何なのか。上司の"七海課長"に緊張しているわけではないのだと言うことに。
「ち、違わないです…その……建人さんの目に、少しでも良く映って欲しくて…」
名前を呼ぶのは緊張する。お店で一度呼んだきりの彼の名を口にするだけで心臓が甘く疼いた。目が泳いでるのが分かるも、ずっと見つめることなんて出来そうになかった。
「貴女という人は…」
建人さんの小さな声が吐き出されたかと思うと、気づいたらわたしは手を引かれて彼の腕の中にいた。一度目は事故だったけど今回は違う。その大きな体に抱き締められている。シトラスの香りがわたしを包み込んでいる。
もう完全にキャパオーバーだった。逞しい腕に抱き締められた瞬間にわたしの心臓は破裂してしまった。