消えない痛み

「……妊娠したんだ」
「え? 誰が?」
「……妻が」
「は……妻って、なに言ってるの? え、ちょっと待って…分かるように説明してよ」
「ごめん…騙すつもりは、」
「なかったなんて、言わせない……最低っ…」

 本当に好きだった人。この先の未来を想像して、きっとこのまま彼と人生を共にするのだろうと思えた。それなのに裏切られた。
 まさか自分が不倫をしていたなんて思いもしない。疑いもしなかった。沸き起こるのは怒りと嫉妬と自己嫌悪。こんな男だったのかと幻滅する気持ちと、それでも簡単に消えない想い。子供ができなければ私はずっと彼と付き合っていたのだろう。何も知らないまま。囁かれた愛の言葉は、こんなにも薄っぺらかったのか。こんな形で二人の記念日を迎えるなんてね。


 夢と現実の狭間を揺らいでいた思考が呼び戻された。目を開いた瞬間、目尻から生温かなものが流れ落ちた。嫌な夢だ。そう思いながら体を起こそうとすると、腕を引かれていとも簡単にその体はベッドへと沈んだ。そして全身を素肌で包み込まれる。
 それは私のよく知る温もりではなかった。その事実が夢を現実へと変えていく。終わった関係も、この一夜限りの関係も。

「嫌な夢でも見たか? うなされてたぞ」
「……夢ならいいけどね」
「こっち向けよ」

 肩を掴まれ体を上向きにされる。見上げる先にいた大柄の男。長い金髪が揺れて、昨夜外にいた時とは雰囲気が違っていた。そう言えば剃り込んでいた気がする。しかも刺青のようなものもあった。昨日は何も考えられなかったけれど、相当ヤバい人なのかもしれない。
 割れた腹筋も何だか異様に体格がいいことも、そっち系の人なのを裏付けているみたいで、思わず唾を飲み込んだ。

「あの…」
「なぁ」
「は、はい」
「嫌なことは忘れるのが一番だぜ。手伝ってやるよ」

 ゆっくりと近づく顔。綺麗な顔をしてるな、なんて呑気なことを考えていたら唇が重なり、早々に舌が入ってきて私のそれに吸い付いた。
 言葉とは裏腹に、少し粗削りなそのキス。凄く上手いという訳じゃないのに、何故かそれが私の心甘く震わせた。
 大きな掌が胸に触れ、乳房を包み込み指先でその頂を擦り合わせる。重なる唇から甘い吐息が漏れる。心がなくてもこんな風に体を重ねて卑猥な声が出るものなのだと知った。そう、愛がなくなって快楽に溺れていけるのだ。私の前から消えた彼のように。

「っぁ、ん……ねぇ…ドラケン」
「んあ?」
「気持ちい…もっと、して……何も考えられないくらい」
「ハッ…すっげぇそそられる、その顔」

 ニッと笑うと、既に溢れている秘部へと指を這わせ、唇は硬くなっている胸の先を含み小さく歯を立てた。甘い痛みが全身を駆け巡る。
 もう醒めた思考がやめた方がいいと言っている。だけど私は彼の金髪に指を差し込んで、それから汗ばんだその背中に腕を回していた。
 きっと、まだ止まない雨が窓を打ち付けていたからだろう。


 次に目が覚めた時には、ベッドからその温もりは消えていた。もう帰ったのだろうか。そう思い体を起こしてシャツだけを着てキッチンへと向かった。
 そこに居たのは上半身裸でズボンだけ履いている彼、ドラケンだった。今は髪の毛を結っている。そしてやっぱりサイドにあるのは刺青だ。一気に背筋が凍る思いがした。

「なに、してるの?」
「何って朝飯だろ。腹減った」
「いや…もう帰ったのかと」
「あ? ここに居ていいって言ったのお前だろ」
「え、言ってな……あれは雨に濡れてたからで!」
「まぁいいじゃねーか」

 俺たち相性いいしな、と耳元で囁かれれば何も言い返せなかった。赤くなった顔を誤魔化すように肩にかけられた腕から抜けると、いつもの珈琲を入れる。彼のカップを用意しようと客用のものを取ろうと戸棚を開けて背伸びをすると、後ろから伸びてきた手がそれを簡単に取り私に差し出した。

「これか?」
「あ、ありがとう」
「飯くらいは作れるぜ。仕事だろ?」
「うん…あなたは? 悪いけど信用してるわけじゃないから、鍵は渡せない。できればもう、」

 関わりたくないんだけど。
 その言葉は言わなかった。言えなかったというのが正しいかもしれない。彼の目が鋭くなったような気がしたからだ。

「あぁいいぜ。俺も出なきゃ行けねぇしな」
「仕事?」
「いや、学校ガッコ。つっても勉強なんてしねぇけどな」
「学校って……大学生? まさか高校ってことはないわよね」
「あん? 何言ってんだ……俺は中三だ。義務教育っつーやつだな、ハハ」

 そう言って笑い、上半身裸で牛乳を一気飲みする姿を見て…――人生終わったと思った。

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