拭った涙は恋の味
薄暗い営業企画部のオフィス。
定時をとうに過ぎているので、フロアの照明は落とされデスクライトだけで仕事をしていた。
急ぎの仕事があるわけでは無かったが、心に張り詰めていたこの感情を抑え込むには、仕事をしていないと簡単に溢れてきそうだった。
悔しさと後悔の波が押し寄せる。
息をするのも忘れそうになる程に、パソコンに向かって次の仕事で使う資料を作成していると、フロアの入口に人気(ひとけ)を感じ、顔を上げた。
私を見つけ、大きな目を更に広げた彼は、「よもや」と驚いた声を上げるとすぐに笑顔になり、私に近づきながら言葉を続けた。
「まだ残っていたのか? 今日は疲れただろう、もう帰ってもよい」
「煉獄さん…」
「どうした? 何かトラブルか?」
私の震えた声に心配したのだろう。
椅子に座る私の真横に立った彼は、私の顔を覗き込むように腰を屈めた。
どうして笑っているのだろう。
どうしてこんなに眩しく笑えるのだろう。
抑えようとすればする程に湧き上がる感情は、彼のその顔を見た瞬間に、止めどなく零れ落ちていく。
何も言わず、目から熱い涙を流し始めた私に彼はギョッと目を見開き、少し戸惑ったような声を上げた。
「おい、何故泣いて…」
「…悔しくないんですか?! 煉獄さんは……私達、凄く頑張ったじゃないですか! あの企画自信あったじゃないですか! 宇髄さん達に負けたのにっ…負けたのに、悔しくないんですかっ!」
そう、私は煉獄さんの補佐として、営業部での企画コンペに挑んでいたのだ。
凄く素敵な企画で、私達は自分達で胸を張って言える程に頑張ったし、負けるだなんて思ってなかった。
確かに、宇髄さん達の企画も良かった。認めたくないけど。
それでも、相手の企画が選ばれても尚笑っている煉獄さんが理解できなかったし、それが余計に悔しかったのだ。
だからこうして、ぶつけようの無い感情を誤魔化すかのように仕事をしていたのに、また彼の笑顔を見て、結局彼に吐き出してしまった。
だがもう溢れてしまった気持ちは抑えが効かない。
泣きじゃくる私に、煉獄さんはポンポンと子供をあやすように何度も頭を撫でた。
「そうだな、悔しいな」
「だったら何で、」
「だが、悔しいと声に出して言ったところで結果は変わらないだろう。泣いたところで、何も変わらない。だったら俺はその悔しい気持ちを次に活かせば良いと思ったのだ。それに、自分達の企画が劣っていたとは思わない。俺と君が自信を持って出した企画だ! ただ、宇髄達も素晴らしかった! ただ、それだけだ」
「…うぅっ、すみませ……」
煉獄さんは、感情を剥き出しにする私よりずっと大人だった。
悔しくない筈がないのに、笑顔で相手を讃えるだけでなく、自分の企画への誇りも捨てていない。そしてもう次を見据えていたのだ。
私は単に補佐をしただけなのに、負けたという結果だけを見て、何も分かっていなかった。
「…情けないです。私は…泣くことしか出来てなくて…すみませんっ…」
「謝る必要などない! 勘違いして欲しくないのだが、俺は決して君の涙を否定しているのではない。純粋でとても綺麗な涙だ」
私を椅子ごと彼の正面に向かい合わせると、真っ直ぐ目を見つめられる。
本当に、彼の笑顔は眩しい。
彼に見つめられ、トクトクと脈打つ心音が徐々に加速していく。
伸びてきた手が頬を優しく撫でるように、涙の跡を拭ってくれた。
「俺は、少し嬉しいぞ」
「え?」
「君がそのように悔しい気持ちを出してくれて、涙を流してくれたおかげで…心がスッキリした。顔には出さずとも、胸の中では悔しさも後悔もあった自覚があったが、自分で思っていた以上だったのかもしれない。だから、君が俺にぶつかってきてくれた事で、気持ちが晴れた」
「煉獄さんっ…うわぁぁ……」
「ああもう、泣かずともよい! ほら、飴をやろう! 甘くて美味いぞ」
ポケットから差し出された飴を見て、少し涙は奥へと引っ込んだ。
だが私はそれを受け取らずに、空いていた彼の懐へと飛び込み、両腕を彼の腰に回した。
頭上から「うお、っと」という声は聞こえたがそれ以上は何もない。
埋めた顔を少し動かせば、視線の先に見えた彼の腕は、私を受け止めた拍子に広がったのだろうか、開かれたまま宙に浮き止まっている。
頬越しに伝わる鼓動が速くなっているのが分かったが、私はそれに気づかない振りをして更に回した腕に力を込めた。
「子供扱い、しないでください…」
彼と共にした時間が多かったこの数週間。
何度この笑顔にときめいただろう。
何度彼の声に心を鳴らしただろう。
見て見ぬ振りをしていた感情だったが、この場にきて咄嗟に出てきてしまったのだ。
本当なら蓋をしておくつもりだったし、こんな風に後先考えずに突っ走ってしまう予定もなかったというのに。
彼の喉を鳴らす音が聞こえ、恐る恐る顔を上げた。
困った顔をさせているに違いない…―――そう思ったけど、意外にも煉獄さんは、顔を赤く染めて私を見下ろしながらもその表情は固まっていたのだった。
その姿勢のまま彼の名を呼べば、凛々しい眉を下げて困ったように笑った。
「よもや……君からそのような言葉をもらうとは、予想していなかった」
「私も、予想外です。つい体が勝手に」
「君は感情豊かだな」
フゥと深く呼吸をした彼は、私の肩に手を置いた。
自然と離れてしまった体。
彼と私の間に出来てしまった空間を寂しく思っていると、不意に今度は、彼が私の背中に腕を回し、その腕の中へと収めた。
「泣いたり笑ったり怒ったり…本当に君は仕事中も感情豊かで、見ていて飽きなかった。上司として君を見てきたつもりだったが……何故だろうな。今は君を離したくない」
「煉獄さん…」
「うむ、もっと近くで君の色んな表情を見せて欲しい」
下から見上げる煉獄さんは、いつもより少し照れながらも口角を上げていつもと同じ笑顔を私に向けた。
いや、いつも以上に輝いて見えると思っていいのだろうか。
彼の大きくて厚い胸元に顔を埋める。
私を包む大きな温もりを感じていたら、顎に触れた彼の手に導かれるまま顔を上げると、優しくも熱いものが唇へと落ちてきた。
―Fin―