もう、我慢できそうにない
「さて、行こうか藍沢」
自席から立ち上がり、スーツの上着を靡かせながら羽織る姿を見て、頬が微かに熱くなる自覚がある。
残念ながらそれをどうにか出来る術は持ち合わせていない。私の名前を読んだ彼の後を追いかけた私の口からは、今から取引先に向かうには程遠い、弾んだ返事が飛び出した。
エレベーターに乗る時、普通なら部下がボタンを押して上司を先に乗せるだろう。だけど、彼はいつも私を先に乗せてくれる。その優しさは私だけに向けられてるわけではないけど、そんな紳士的な上司、煉獄さんは私に柔らかな笑顔を向けて、「元気がいいな」と恐らく先程の私の返事に対して言葉を繋いだ。
顔を赤くした私を隠すように、静かにエレベーターの扉が閉まる。
「すみません。煉獄さんと一緒の仕事は久しぶりだったので…」
「うむ、そうだったな。俺と一緒だからそんなに元気なのか」
繰り返し言葉にされると恥ずかしい。だけど、頭上から降りてきた言葉と髪に触れるその手に、私の心は更に弾み、エレベーターが開いた時も顔は緩んだままだった。
「可愛らしいな、藍沢は。今夜は食事でも行こうか」
◇
上司である煉獄さんとの距離が近づいたのは最近の事だった。恋人という立ち位置に変わりはしたものの、まだ上司と部下という関係の方が長く、恋人らしい事と言えば、一度だけ交わしたキスくらいだ。
「煉獄さん、ご馳走様様でした!」
「美味しい店だったな。また来よう!」
「はい……あれ、雨?」
駅まで向かう道中、突然頭上から降り出した雨。小雨だろうと思っていたが、その雨は徐々に強くなり瞬く間に地面の色を変えていく。
煉獄さんに背中を押され、私は書類が入っている鞄が濡れないように抱えて走った。煉獄さんが止まっていたタクシーに声をかけ、考える間もなくそのタクシーに乗り込む。
「ハァ……凄い雨ですね。良かった、すぐにタクシー捕まって」
「あぁ。すまないが――」
煉獄さんの声は、私ではなくタクシーの運転手へと向けられ目的地を告げていた。そこが何処なのかと逡巡しながら煉獄さんへ顔を向けると、いつの間にか脱いでいたスーツの上着を私の肩へと掛ける。
紳士的な煉獄さん。髪が濡れていつにも増して色気が強くなっている気がする。そんな姿を見て、私の心臓が騒ぎ立てる。雨に濡れたと言うのに、触れ合った手がとても熱かった。
「風邪を引く。着ているといい」
「あの、煉獄さん……どこへ?」
「…俺の家だ」
タクシーを10分ほど走らせてすぐに到着した煉獄さんの家。外観が素敵なマンションだった。
ここに着くまでに色んな事を考えたけど、単純に近いからだったのだという結論に至った。そう思わないと気持ちの整理がつかなかったから。好きな人の家に入れるという一大事。本音を言えば緊張して心臓が今にも爆発しそうだった。
煉獄さんはどう思っているのだろう。部屋に上がるエレベーターの中、隣に立つ煉獄さんを見上げると、交わった視線が不自然に逸れた。心做しか顔が赤く見える。
「煉獄さん……?」
「すまない、勝手に連れてきてしまった。君が風邪を引いてしまうかと思ってな」
「ありがとうございます」
「……というのは建前だな」
階について、歩きながら吐き出すように放ったその言葉と共に鍵を開けてその扉を開けた。その表情は、上司の煉獄さんでもなく、紳士的で優しい恋人の煉獄さんでもない、初めて見る甘く性欲的な顔だった。
扉が閉まるのと同時、唇を塞がれる。啄むように重なる唇に、身体の奥が甘く疼く。
「本音を言えば、ずっとこうしたかった。だが少しの事で顔を赤く染める君にどう触れていいのかと思っていたのだが……雨に濡れた君を前にして、気持ちが抑えられなくなった」
「煉獄さん……」
「こんな俺は、嫌か?」
「嫌なわけないじゃないですか。嬉しいです……私も、煉獄さんに触れたかった」
その言葉から行き着く先を期待して視線を上げる。扇情的な瞳を向ける彼が、熱い吐息と共にその言葉を紡ぐ。
「好きだ、ハル」
「私も、大好きです」
「……もう、我慢できそうにない」
雄々しい口付けが降り注ぐ。
雨で肌に張り付いたシャツも髪の毛も、どうでもいいとさえ思う。目の前にいる煉獄さんしか考えられなくなる熱く妖艶なキスに、シャワーをしていなくても私の身体は火照っていく。
いま目の前にいるのは上司ではなく紛れもなく私の恋人だ。そんな彼にもっと近づきたい。もっと知りたい。煉獄さんの熱に触れ、私の心に燻っていた想いが溢れていった。
「我慢なんてしないでください。知りたいです、もっと。色んな煉獄さんを教えてください」
腕を首に回すと、耳元でフッと笑う声が聞こえ、私の身体は軽々と持ち上げられた。
爽やかな部屋の香りが、一瞬で甘く色付く。煉獄さんの低音が鼓膜を叩き、私は静かに瞼を閉じた。
―Fin―