行くなよ…
春は出会いの季節でもあるが、別れの季節でもある。例年より早く満開を迎えた桜が、風に運ばれるようにその淡いピンクの花を散らしていく。
掌を空に向ければ、そこに一枚の花弁がはらりと乗った。
――ほら、ついてんぞォ。
呼び起こされる淡い記憶。その声が今でもすぐ傍で聞こえるかのようなそんな錯覚に陥る。私の髪についた桜の花を、目を細めながら取ってくれたのは何年前の花見だったか。
似合ってるからそのまま付けとくかァ、なんて冗談を言いながら微笑みあったあの日。
私はあの笑顔が好きだった。強面の顔が笑うと柔らかくなって、幼子のように優しくなる。その気持ちは今でも変わらない。
桜並木を見上げながら、ゆっくりと歩き進める。突然吹き抜けた
桜吹雪の奥で私を愛おしそうに見つめる瞳に、唇に弧を描きながらその声のする方へと駆け出した。
◇
話がしたい、とソファに座る彼の前に、お揃いのマグカップに紅茶を入れて静かに置いた。
一緒に住み始めて最初に買ったものだった。半年前に、私のカップの持ち手が少しだけ欠けたけど、そのまま使っている。
こうして向かい合ってゆっくり話すのはいつぶりだろうか。一緒に住んでいるのに、顔を合わせていないというのもおかしな話だ。私が何を話そうとしているのか分かっているのだろうか。真っ直ぐ私を見つめるその瞳に、憂いを感じるのはただそう思いたいだけなのか。
「もう、終わりにしよう私達……」
いつ頃からだろうか。この言葉を幾度となく頭の中で繰り返していたけど、初めて言葉にすると胸に
ある程度予想はしていたのかもしれない。だけど、ラグマットの上に座ってソファ座る実弥に視線を向けると、その目は困惑しているようだった。
「別れる理由が見当たらねェ」
「…このまま関係を続ける理由も、でしょ?」
「……」
「私達、いつからちゃんとした会話してない? これって恋人なのかな。一緒に住んでるのにお互いが遠くてそれを合わせようと努力もしないで良しとしてるなんて…恋人って言えないよね。実弥も今仕事が波に乗ってて楽しいんだろうし、それは私も同じなの。だから実弥を責めるつもりもないし、私にも非がある」
「ハル……」
「今度、海外事業部に配属される。海外へ異動になったら私は迷わずに行く」
「は?」
「もう……優先順位が、実弥じゃないの。だから別れて欲しい。ごめんなさい」
好きという気持ちがゼロなのかと言えば嘘になる。むしろ信頼してるし好きなのだろう。だけど、付き合った時の胸の高鳴りも、燃えるような心も、もうどこかに置き忘れてしまった。
実弥は自分の両手で何かを握りつぶすように力を入れ、それを額へ押し付けた。言葉のない深い溜め息だけが実弥から漏れる。その姿にチクリと胸が痛んだけれど、それに気づかないふりをした。
「もう、俺が何を言っても無駄なんだろォが……頑固だからな、ハルは」
「うん」
「…そうか」
「楽しかったし、幸せだったよ私。実弥と出会えて良かった。ありがとう。じゃあ……荷物纏めるね」
立ち上がった私の手を、実弥は強く握りしめる。視線は合わないけど、触れられた場所は微かに熱を持っていた。
「行くなよ…」
「……」
「お前がいなくなるなんて、考えたこともねェ。嫌いになったと責められる方がまだマシだ。もう本当に、」
実弥が掴んでいる手を、私はそっと離した。漸く視線が合わさり、揺らいだ瞳を伏せると、「そうか」と実弥の手が宙を彷徨う。
簡単に別れを受け入れられずに、こうして引き止めてもらえた事に嬉しさを感じる私はひどい女なのかもしれない。
だけど、先が見えない恋愛はしたくない。
「日本を発つ時は連絡くれェ。見送りに行く」
「絶対連絡しないわよ……空港で泣かれても困るし」
「ハッ…言うじゃねェか」
笑いの含んだその声に、私も口許が緩む。少し懐かしいこの感じに後ろ髪を引かれる思いがするも、私は実弥の方を振り向かなかった。
「さようなら、実弥」
恋愛の歯車はきっと些細なことで狂ってしまう。
それをお互いが思いやり修正しようと努力しなくなってしまったら、そこにはもう愛はないんじゃないだろうか。例え好きという気持ちが根底にあったとしても、自分の中での優先順位が下がってしまうと、お互いにとってのいい関係が築けない。
それは恋人でも友人でも、人間関係すべてに言えることなのかもしれないけど。
次に素敵な出会いがあった時は、その手を離すことがないようにしたい。
三年の海外生活を終えて帰国した。良くも悪くも変わらない日本の空港。足早に通り過ぎる人波に飲まれないようにキャリーケースを転がしながら歩く。
国際線の到着出口。
迎えの人たちで混雑する中、銀色の髪が揺れたのは、気のせいだろうか――――。
―Fin―