傍にいてくれるだけで


「仕事は休めないのか?」
「うん、代わりがいないから…とりあえず在宅だし仕事しないと」
「……無理だけはするんじゃないぞ」
「うん」

 ズキズキする痛みを和らげようと、こめかみを指で軽く押さえる。そんな私を心配そうな眼差しで見つめる同棲中の彼、杏寿郎はもう散々私に伝えた小言をまだ言い足りないのか、「何かあったら連絡してくれ」と言葉を変えて仕事に向かった。
 昨日から体調が優れなかった。昨夜は微熱程度だったものが今朝測ったら上がっていて、でもそれを杏寿郎に言えば絶対に仕事をするなと言われると思ったから、微熱だったと嘘を吐いた。
 自然と浅くなる呼吸を整えようと深く息をする。吐き出される熱に、また上がりそうだと確信めいた事をぼんやりと考えていた。
 こういう時、家でも仕事が出来てしまう在宅は面倒だと思う。別に仕事がしたいわけじゃない。私だって休めるのなら休みたいし、万全な状態で仕事をしたい。だけど、人が少ないと分かっていて、私が仕事をしないと回らなくなってしまうから、やるしかないじゃない。杏寿郎だって、少し体調が悪くても仕事に行く。だから小言をいいながらも分かってくれたんだと思うけど。
 常備していた解熱剤を飲んで必須の仕事に取り掛かる。熱のせいで不明瞭になっていく思考をなんとか起こした。それでも午後になると寒気を感じ、顎下のリンパが痛くなり、体温計なくしても分かる体温の上昇に、意識が遠のいていった事さえ気づかなかった。


 金属がぶつかる様な大きな音で目が覚めた。一瞬ここが何処なのか分からなかったけど、次第に醒めていく意識に自分がベッドで横になっている事を悟った。
 重たい体を起こしたタイミングで、寝室の扉が開いた。杏寿郎が私を見て目を見張る。無理したからだと怒られるかと思いきや、その目は細まり、安堵したように息を吐いた。

「帰ったら椅子から落ちて床に倒れていた君を見た時は、さすがに肝を冷やしたぞ。医者に連絡したら一先ず様子を見て明日には受診するように、とのことだ」
「…杏寿郎……怒ってる?」
「何故だ?」
「あれだけ仕事休めって言われたのに、無理してやったから…」

 熱のせいだろう。普段では言うことの無いような弱々しい言葉が口を割って出てくるのと同時、熱い涙が頬を伝っていく。
 別に杏寿郎が怒っていてもいなくてもこれは関係ない。怒れるからとかじゃなくて、単に心が弱っているだけだ。理由は分かっているのに止まらない涙を、私に近づきしゃがみ込んだ杏寿郎が優しく指の腹で拭ってくれた。

「怒ってなどいない…心配なだけだ」
「…ん、分かってる」
「泣くほど辛いか?」

 首を横に振るも次々と溢れる涙。ぽん、と頭に大きな手が乗り優しく撫でられる。それからもう片方の手が左頬を包むように柔らかく触れた。
 杏寿郎の体温は平均よりも少し高めだ。夏になると隣に座るだけで私まで暑くなる。だから「もう少し離れてよ〜」なんて冗談めいたやり取りをするのが恒例だった。
 熱がある今、本来ならば熱を下げるような冷たい手が欲しいと思う。だけど触れられた彼の手から伝わる温かな体温は、嫌な気持ちにならなかった。むしろもっと触れていて欲しいとさえ思う。とても安心する温もりだった。

「杏寿郎……迷惑かけてごめんね」
「迷惑なわけあるか。さっきも言ったがハルの心配をしているだけだ。君が仕事をしないと回らないからと無理をする気持ちも分かる。だが…その所為で重篤になってしまうのであれば、俺はあのパソコンを放り投げる」
「…それは困る」
「実際にはやらないが…それくらいの気持ちだと言うことだ。ハルが頑張っているのは知ってる。とても責任のある仕事だからな。でも、心配する人間がいることを忘れないでほしい」
「うん」

 頬に触れている杏寿郎の手に重ねるようにして自分の手を置く。スリスリとその体温を感じていると、杏寿郎が私の名前を静かに呼んだ。ぽりぽりと頬を掻きながら。

「ところで、君にお粥でもと思ったが…どうやら俺のやり方が悪かったのか鍋が焦げてしまった。君のお気に入りの鍋だ…申し訳ない」
「え…」
「そうだ! ゼリーを買ってこよう。それとスポーツドリンクも。あとは食べたいものはないか?」

 そうだった。杏寿郎は劇的に家事が苦手なのだった。私が怒ると思ったのか話をすり替えようとしている気がしないわけでもない。本当なら一回怒っておきたいところだけど、今はそれよりも…

「今は、そばにいて欲しい」

 承知した、と私を暖かな瞳で見つめる杏寿郎に抱きついた。今日は思い切り甘えてしまおう。たくさん撫でてもらおう。

「ありがとう、杏寿郎」
「ハル…」



 やっぱりゼリーが食べたい、と私が言葉にしたのは、杏寿郎が私の顔に唇を寄せようとした時だった。残念そうな背中を抱えてコンビニへ向かう彼に小さく謝罪をする。
 貴方に触れたいから、明日は休んで早く治します。




(治ったら…とびきり甘い熱を唇に)

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